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スファラディ系ユダヤ

 

この「スファラディム」とは、ヘブライ語で「スペイン」の意味。本来はイベリア半島ユダヤ人共同体のことを指し、アジア・アフリカ系は東洋系(オリエンタル)という。

しかし、現在ではアジア・アフリカ系すべてを、欧米系のアシュケナジームに対比させてスファラディムと総称することが多い。その出身国は、北西アフリカ、モロッコアルジェリアチュニジアリビアイラク、イラン、イエメン、シリア、インドなど広範囲にまたがっており、決して一つの共同体というわけではない。

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

欧州からやってきたアシュケナジーユダヤ人は「エレツ・イスラエルイスラエルの土地)にユダヤ人国家を復興させる」という高い理念に燃えていた。キブツ社会主義ユダヤ人共同体)運動の実践もこの人達である。

しかし、スファラディユダヤ人はこの種のイデオロギーにはあまり共鳴せず、すでに築かれたイスラエルの都市周辺部に吹きだまりのように引き寄せられていった。彼らは、戦争の際には最前線に送られ、戦時ではなく平時には、国境近く、あるいはまた占領地などを開拓するために、イスラエルに集められたのであった。

現在もイスラエル政府の要職についている人間は、ほとんどがアシュケナジーユダヤ人であり、イスラエル国内は支配する立場のアシュケナジー系、支配される側のスファラディ系という二重構造になっている。政治家や学者、医者などにはアシュケナジー系が多い。その反面、肉体労働者にはスファラディ系が多く、彼らのほとんどは経済的に貧しく、下積み状態(二級市民扱い)に置かれている。

ちなみに、ユダヤ教自体もアシュケナジー系とスファラディ系とに区別されており、同じ町に住んでいても異なったシナゴーグユダヤ教会堂)へ足を向けることになっている。

イスラエルに移民したユダヤ人たち(出身地別統計)

上の表はイスラエルに移民してきたユダヤ人たちの出身地別統計である。これを見れば一目瞭然。イスラエル建国とともに、どっとイスラエルに流れ込んできた人たちは、ヨーロッパ出身の「アシュケナジーユダヤ人」である。

しかし、1951年から形勢が変わる。1951年から1956年にかけて続々とアジア・アフリカ出身のユダヤ人たち、すなわち「スファラディユダヤ人」たちがイスラエルに入ってきたのである。彼らは1492年すなわちスペインから追放されて以来、北アフリカおよびアラビア半島アラブ諸国で生活してきた人々である。彼らはイスラエル建国のニュースを聞き、あたかも『旧約聖書』の預言の成就であるかのごとくにして、希望を持ってイスラエルに流れ込んできたのであった。

アラブ諸国からのユダヤ難民(1948年5月~1967年12月)

イスラエル国内のユダヤ人口に占めるアシュケナジー系とスファラディ系の比率は1972年に逆転し、以後、スファラディ系の占める割合が増加している。

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

東京大学教授の鶴木眞氏は、著書『真実のイスラエル』(同友館)の中で次のように述べている。

「現在、イスラエル社会には、異なる民族的特徴を持つ2つのユダヤ人集団が存在する。

1つはヨーロッパ系ユダヤ人集団であり、もう1つはアジア・アフリカ系ユダヤ人集団である。ふつう前者は『アシュケナジー系』と呼ばれ、後者は『スファラディ系』と呼ばれている。この2つのユダヤ人集団の区別は、ユダヤ人の流浪の歴史と深い関係がある。〈中略〉

ところで、厳密にいえば、アジア・アフリカ系ユダヤ人を一括してスファラディ系と呼ぶのは正しくない。なぜなら、ユダヤ人がパレスチナを離れた歴史は一度だけでなく、大きなものを拾っても、紀元前7世紀のアッシリアによるイスラエル王国の滅亡、紀元前6世紀の新バビロニアによるユダ王国の崩壊などの結果、紀元1世紀のローマ帝国によるパレスチナからのユダヤ人追放の前に、すでにインドを含めた中央アジア、中東、北アフリカ、イエメンには、流浪の民としてのユダヤ人社会が存在していた。

したがって、アジア・アフリカ系ユダヤ人のすべてがイベリア半島系のユダヤ人すなわちスファラディ系とはいえない。しかし、今日一般には、スファラディ系とアジア・アフリカ系とが、同義語として使われている。その理由は、アジア・アフリカ系ユダヤ人の祈祷形態がスペインで発展した教義に強く影響されているため、また現在のイスラエル社会でアシュケナジー系以外のユダヤ人を一括して呼ぶ名称が必要なためである。」

1984年には、83万7000人ほどのスファラディユダヤ人がアラブ諸国に住んでいたと推計されるが、1973年にはわずか5万人以下となっている。アラブ諸国に住んでいたスファラディユダヤ人のうち、80%以上が独立後のイスラエル流入した。このため、パレスチナユダヤ人社会の横顔(プロフィール)は、イスラエル独立の前と後で大きく違った。〈中略〉

都市にしろ、モシャブにしろ、キブツにしろ、スファラディ系の人々がアジア・アフリカの諸国からイスラエルへ移住したとき、立地条件がよく安全度の高い地域は、すでにアシュケナジー系の人々に握られていた。スファラディ系の人々の大部分は、社会的にも地理的にも末梢なところに置かれたのである。」

さらに、鶴木眞氏(東京大学教授)は次のように述べている。

「このように、イスラエルユダヤ人社会は、2つの異なるユダヤ人集団から形成されているといえよう。アシュケナジー系の人が、どんなにスファラディ系のシナゴーグユダヤ教会)の近くに住んでいても、決してそこにお祈りに行くことはないし、またその逆も然りである。聖書の読み方や讃美歌のメロディーなど全くちがう。宗教のことは気にとめないと言っているユダヤ人も、ヨム・キプール(贖罪日)やペサハ(過越の祭)などの重要な祭日には、にわかに宗教的になる者が多い。

私(鶴木)は、ふだんは宗教離れしているアシュケナジー系の夫とスファラディ系の妻の家庭で、ペサハのときにコメを食べてよいかどうかをめぐり、たいへんな論争をしているのを見て驚いた。夫はダメだといい、妻は食べることができると反論し、互いの主張を頑として譲らなかった。

アシュケナジー系とスファラディ系の2つのユダヤ人集団の間には、流浪の歴史を通じて結婚などの人的交流はほとんどなかったのである。」

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

また、イスラエルと聖書の問題に詳しいある研究家も、次のように述べている。

「建国当初、1961年頃のアシュケナジームとスファラディムの結婚率はたったの12%程度で、スファラディムとアシュケナジームが融合することは非常に少なかった。

一般的にスファラディムの夫とアシュケナジームの妻という夫婦がいた場合、もしその娘にボーイフレンドが出来たとすれば、スファラディムの父はそれをふしだらなことだと感じるが、アシュケナジームの母はそれを当然のことのように感じると言われる。

彼らは同じユダヤ人であると言いながら、西と東という全く異なる文化圏で生活した、全く異なる人々なのである」

「アシュケナジームとスファラディムは、社会的な階級という意味でも対照的な存在であると同時に、宗教的にも2つの異なる勢力を形成している。もちろん双方ともユダヤ教に変わりはないが、彼らの通うシナゴーグユダヤ教会堂)も2つに分かれている。チーフ・ラビ(ユダヤ教の教師)たちもまた別々に存在している。

アシュケナジームには、ユダヤ教の戒律などを厳しく守ることを重視しない改革派系のユダヤ教徒が多い。彼らの中にはトーラーと呼ばれるモーセの律法を信じない者さえ多い。一方、スファラディムには、オーソドックス(正統派)と呼ばれる、厳格で律法主義的な習慣の中に生きている人々が多いのである」

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

ところで、イスラエル指導者たちはアラブ世界に激しい偏見を持つのみならず、アラブで染まったスファラディユダヤ人たちを“下等民族”とみなす傾向にある。

例えばイスラエルの初代首相ダヴィド・ベングリオンは以下のような発言をしていた。

「モロッコから来たユダヤ人は何の教育も受けていない。彼らの習慣はアラブ的である。私が好きではないモロッコ文化がここにある。私たちはイスラエル人がアラブ的になって欲しくない。私たちは個人と社会を破壊してしまう『レバント(東地中海沿岸地方)精神』と戦い、ディアスポラ(離散)のなかで作り上げて来た本当のユダヤ的な価値を維持しなければならない」

イスラエル第4代首相ゴルダ・メイアは、スファラディユダヤ人に対して人種差別的な傲慢さを明らかにした。

「私たちはモロッコリビア、エジプトその他のアラブ諸国からのユダヤ移民を抱えている。私たちはこれらのユダヤ移民たちを適切な文化レベルまで引き上げてやらなければならない」

イスラエル外相を務めたアバ・エバンは、スファラディユダヤ人とアラブ世界に対する偏見をはっきりと言い表していた。

「私たちが自分たちの文化的状況を見るにつけ、心痛むことが一つある。それはアラブ諸国からやってきたユダヤ移民たちが、やがて優位に立ってイスラエル政府に圧力をかけることになり、隣国すなわちアラブ諸国の文化レベルにまで落としてしまわないかということである」

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

ところで、PLOの初代議長アフマド・シュケイリは「シオニズムが、アジア・アフリカ諸国にいた、移民する必要のないユダヤ人をイスラエルに移送した」と指摘している。

1963年の「国連総会」での演説で、彼は次のように主張している。

「彼ら(スファラディユダヤ人)は、シオニズムによってムチ打たれ、移住させられた。イラク、シリア、エジプト、チュニジア、モロッコなど、アラブ世界のどのようなところでも、ユダヤ人に対する迫害などなかった。だから、彼らは出国する必要などなかったのである!」

この件に関して、前出の鶴木眞氏(東京大学教授)は次のように述べている。

アラブ諸国パレスチナ解放組織の指導者たちは、スファラディユダヤ人を『ユダヤ教徒のアラブ人』と呼んでいる。アラブ人とユダヤ人は同じセム系の民族であり、アラビア語ヘブライ語も、ともに北西セム語というグループに入れられている。〈中略〉

アラブ側がスファラディ系の人々を『ユダヤ教徒のアラブ人』と呼び、アシュケナジー系の人々を『ユダヤ教徒の非アラブ人』と呼んで区別するのは、ヨーロッパに起源を持つシオニズムがアラブの世界とは歴史的にも地理的にも無縁なことを強調したいためである。

そしてパレスチナシオニストの手から解放され、『キリスト教徒もイスラム教徒もユダヤ教徒も平和のうちに祈り、働き、生活し、平等の権利を享受する進歩的、民主主義的、世俗的パレスチナ』が実現したあかつきには、シオニズムを放棄する用意のあるユダヤ人を『ユダヤ教徒パレスチナ人』として受け入れる意図を再三にわたり表明している。

このアラブ側の主張は、本来シオニズムとは無縁であったスファラディユダヤ人に対する連帯の呼びかけでもあるのだ。」

「このアラブ側からの呼びかけに、シオニストは、スファラディ系の人々を『ユダヤ教徒のアラブ人』ととらえることはできないと強く反論する。つまり、ユダヤ人にとっては宗教と民族は分離できない要素であり、キリスト教徒のアラブ人やイスラム教徒のアラブ人と同列に、『ユダヤ教徒のアラブ人』という人々が存在するとは言えないとしている。」

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

現在、イスラエル社会で“差別されている”と感じているスファラディムであるが、ことアラブ人に関することになると保守強硬派である。

長い間、アラブ・アフリカ世界に身を置き、その影響を強く受けてきただけに、ユダヤ人としての自らの立場を強く守ろうとする傾向はなおさら顕著である。

同時に、スファラディムはアシュケナジー系住民の抑圧を口にしながら、「自分たちこそ聖書の本当の代理人である」という自負心(選民意識)を強めている。

彼らスファラディムは、イスラエル国内では二級市民扱いで、「対アラブの楯」とされてきたため、しょっちゅうパレスチナ・ゲリラの攻撃を受けてきた。彼らは、やられたらやり返せで、自然タカ派的になり、アラブ人に対して対決姿勢を強めてきた。

彼らスファラディムは、昔はアラブ人と共存共栄してきたが、イスラエル建国後、アラブ人との長い闘争を通じて、全パレスチナ領を歴史的イスラエル領だと主張するようになり、イスラエル拡大主義を支持し、白人リクード党との結びつきを強めてきたのである。

イスラエルの二大政党のうち、「労働党」はアシュケナジームを中心とする政党であるが、「リクード党」はスファラディムを支持母体とする「反エリート政党」として存在してきた。

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

中東情勢に詳しいある研究家は、スファラディムと右派政党「リクード党」の関係について次のように述べている。

「アシュケナジームがつくったイスラエルに、スファラディムたちがアラブ諸国から移住してきた。なぜ、彼らはイスラエルに移住してきたのだろうか。アシュケナジームはその後、イスラエルアラブ諸国がなお激しく衝突することを見通して、スファラディムを必要としたのである。

なぜならばアラブ人とスファラディムとは同じ血を分け合っている。いわば兄弟関係なのである。もし、イスラエルの国境地域にスファラディムを配置するならば、アラブ諸国イスラエルへの攻撃に躊躇(ちゅうちょ)を覚えるだろうと考えたのである。そして、アラブ諸国から帰ってきたスファラディムは、国境近くの危険地域に配置されていったのである。

〈中略〉

アシュケナジームはイスラエル建国以来、このような本当のユダヤ人を二級市民に落とし続けてきた。

しかし、そこに異変が起きたのがベギン政権(リクード党)の誕生である。1977年5月のことだった。世界は本当に驚いた。それまでベギンと言えばテロリスト、ヘルートという政党を指導していたタカ派の壮士とされてきた人物である。ベギンは万年野党であり続けるだろうと観測されていたのである。しかし彼はイスラエル首相に当選した。

このベギンという人物が登場していなかったならば、スファラディムは政治的主導権を握ることはあり得なかっただろう。ベギンはアシュケナジームである。しかし、彼はユダヤ教に熱心であり、徹底して強固な信仰心を持っていた。スファラディムはベギンに未来を託して、ベギンを首相に押し上げていた。もちろんリクード党を支持する者の中にはアシュケナジームもいたが、その大多数はスファラディムだったのである」

ところで、1981年の選挙結果を分析したA・アリアン教授は、ほぼ、アシュケナジームが左派支持、スファラディムが右派支持という図式が存在していることを明らかにした。

彼はこう述べている。

スファラディムの約60%がリクード党、30%が社会主義政党労働党マパム連合に投票したのに対し、アシュケナジームの60%が労働党マパム連合、30%がリクード党を支持した。また労働党マパム連合の得票の約70%はアシュケナジームから得られたのに対し、リクード党の総得票の65%はスファラディムであった」

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

1993年9月、ワシントンで「パレスチナ暫定自治協定(オスロ合意)」が調印されるとともに、イスラエルのラビン首相とPLOアラファト議長が握手し、世界中が「歴史的な和解」として歓迎した。

しかし、ユダヤ人側にもパレスチナ人側にもこの和解を歓迎しない勢力がいた。

「妥協はするな! アラブ人に死を! アメリカの援助はいらない! ラビンは裏切り者!」

1993年秋、連日のようにエルサレムで和平反対のデモが起きた。

ほとんどは占領地に住むユダヤ人入植者で、「キパ」と呼ぶ小さな被り物を頭に着け、女性は長いスカートをはいていた。若者が多く、時には銃を持つ大人が参加していた。アラファトと握手したラビンが手を洗っているポスターもあった。アラファトと握手したため、手が血まみれになったというのだ。アラファトはテロリストで、手は血だらけだというのである。トーチをかざし、パレスチナの旗を燃やし、規制する警官には「イスラエル警察国家!」と叫び、国境警備兵が出て、首相官邸のそばで逮捕者も大勢出た。しかし、逮捕者はすぐ釈放された。

それから2年後の1995年11月4日、世界は震撼した。

イスラエルのラビン首相が暗殺されたのである。

この日、ラビン首相はテルアビブで胸部、腹部の脾臓、背中に3発の銃弾を浴び、意識不明の状態で近くの病院に収容されたが、その日のうちに死亡したのであった。

その犯人は、こともあろうにユダヤ青年(27歳の大学生)であった。その名をイガル・アミールといった。彼は逮捕された時、警察官に向かってこう言った。

「私は神の命令によって単独で行動した。後悔はしていない」

犯人のイガル・アミールは、イエメンから移民した父母を持つスファラディムであった。また彼は宗教右派の中でも最も過激なグループの一つ「エヤル」(ユダヤ民族戦闘機関)のメンバーだったのである。

このユダヤ青年からするならば、神が与えてくれた土地をあたかも中東和平の結果、返還していくイスラエル首相ラビンは、「神への裏切り者」と映ったのであろう。

しかしこのユダヤ青年だけが特別にそう感じていたのではない。軍参謀総長として戦争を勝利に導いてきたラビンが、今度は首相としてパレスチナ人との対立終結のため、占領地をパレスチナ自治政府に移管しようとした時、右派のユダヤ人たちはラビンの行為を「ユダヤ人の土地を敵に引き渡す背教的行為」ととらえていたのである。

しかしラビンからすれば、イスラエルという国が、また中東においてユダヤ人が生き残るためには、アラブ諸国そしてパレスチナ人たちとの和平が欠くことのできないものであると考えていたのであった。

ニューズウィーク』誌(1995年11月22日号)は、この事件について、次のごとくレポートした。

「11月4日、イスラエル首相を暗殺したイガル・アミール(25)は、テルアビブ郊外のきちんとした家庭に育ち、ユダヤ教正統派の学校で教育を受けた。ここまでは亡き首相の孫娘と同じだ。ただし、学究肌の若者だったアミールは、宗教的にも政治的にもユダヤ教の戒律を絶対視していた。アミールを含むラビン首相暗殺事件の容疑者たちは、自分たちこそ本物のユダヤ教徒だと信じていた。

彼らの主張はイスラエル内外の正統派ユダヤ教徒を中心に、かなりの支持を得ている。ニューヨークでは先週、アミールの支援者がダビデの星をかたどったボタンを1個5ドルで売り、『真のユダヤの英雄』の弁護費用を集めていた。

イスラエル国内では、様々な形で首相暗殺の責任を問う声が上がった。ハト派タカ派の強硬姿勢を槍玉にあげた。極右勢力は、占領地からの撤退を決め、ユダヤ人入植者を裏切ったラビンの自業自得だと主張した。」

イギリスBBC放送で「ラビン首相暗殺後のイスラエル」が放映された。

その中で、未亡人となったラビン夫人は、暗殺事件の起きる数日前からの出来事を次のように述べている。

「事件の前の最後の金曜日でした。私が家へ帰ると、群衆が笑いながらこう叫んだのです。

『今のうちに笑っていろ。そのうち裏切り者として裁判にかけてやる。ムッソリーニと愛人のように、おまえたち夫婦を処刑してやる』と。次の日の夜、同じ場所で追悼集会が開かれることになりました。

主人は雷に打たれて死んだのではありません。人間に殺されたのです。しかもこの土地で育った人間に殺されたのです。この土地には、来る日も来る日も言葉の毒がまき散らされています。主人のことを裏切り者、殺人者と叫ぶことを繰り返しているうちに、事件の下地ができあがっていました。彼を殺すことが神の命令だと思い込む人間が、出てくるべくして出てきたのでした。」

「許せる?

いいえ、絶対に許せません。許せないという理由は、先ほども言ったとおり、彼らは暴力、敵意、憎悪を助長する空気を作ったのです。それが町の通りから原理主義者の社会にまで広く充満していきました。そしてある日、誰かが火をつけたときに空気が反応して、爆発が起きたのです」

一方、同じテレビ番組のインタビューで、犯人のイガル・アミールの妹は次のように答えていた。

「兄は頭のいい人でした。それは今も変わりません。兄は時間をかけて十分に考えた末にあの事を起こしたのです。カッとなってやってしまったとか・・・・・・そういうことではなく、やらなくてはいけないと確信したからやったのだと思います」

ユダヤ人入植者たちは孤立していて、そこに住み続けることは危険なのです。しかし彼らはその入植地を捨てようとはしません。命をかけて守っているのです。兄のイガルは、彼らの行動に共鳴し、支援しようとする人間がいるということを示したかったのだと思います」

「兄のイガルだけが本当に国を愛するということの意味が分かっていたのだと考えています。祖国のためなら何でもする・・・・・・そういう勇気を持っていたのは、結局イガルだけだったのです。自分が何をしようとしているのか、私の兄は分かっていました」

暗殺事件から1ヶ月後、イスラエル警察は暗殺事件に関係する数人のラビたちを逮捕した。ラビとは、ユダヤ教指導者のことである。1人のラビの下に、数百人ないし数千人の同調者がいると言われる。

このように、イスラエル指導部がパレスチナとの親和路線に変更したくても、極右勢力(宗教右派)を支持するスファラディム勢力が猛烈に抵抗する状態になっているのである。

現在、イスラエルの極右勢力は、宗教国家から“普通の国家”を望む穏健派勢力と衝突を繰り返し、占領地をめぐって、イスラエル国内には亀裂が表面化し、内部分裂状態である。

アシュケナジーユダヤ人の間では、イスラエル社会への幻滅が急速に広がっていると指摘されるのも、イスラエル国内のこの亀裂と無縁ではない。

最近では「イスラエルの土地」に愛想をつかし、欧米に移住していく者が急増している。逆にイスラエルへの移住者は年々減少し、さらにアメリカからの移住ユダヤ人は滞在1年でその4割が再びアメリカに戻るといわれている。

これに対し、スファラディユダヤ人たちは言う、

「帰れる場所と金を持つ者はよい。我々はここでしか生きられない」と。

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

イスラエルはヨーロッパによって創られた国である。

そして、イスラエルが中東に建国されたのは、ユダヤ人のためというより、なにかと問題の種になるユダヤ人を、自国から追い出したいという欧米諸国の思惑と、彼らの中東戦略(利権支配)が一致したのが大きな要因だったといえる。

パレスチナ問題や中東問題について語る上で、アラブ人とユダヤ人は大昔から宿命的な敵対関係にあったと説く人がいるが、それは本当ではない。

アラブとユダヤの関係が悪化したのは、第一次世界大戦後のことに過ぎない。そして対立の原因は人種的、宗教的なものではなく、政治的なものである。第一次世界大戦までパレスチナではアラブとユダヤスファラディム)は平和的に共存し、その間に重大な摩擦は起きなかった(ユダヤ人は少数民族であった)。

第一次世界大戦後、それまでパレスチナを支配していたオスマン・トルコの敗北にともなって、パレスチナ国際連盟委任統治の形式で、イギリスの支配下におかれた。これを機会に、イギリスが戦時中のユダヤ人に対する約束に従って、パレスチナユダヤ人の「民族的ホーム」の建設を許してから、対立が始まったのである。

「外国からのユダヤ人が来るまでは、お互い行ったり来たりしながら仲良く暮らしていたものです」という言葉は、1948年以前にパレスチナに住んでいたアラブ人がよく口にする言葉である。

“外国からのユダヤ人”というのはいうまでもなく、建国後に移住して来た欧米系のユダヤ人を指す。そのような指導者階級のもとで強引に推し進められた「植民(入植)政策」によって、カナンの時代からパレスチナに住んでいたアラブ・セム系先住民の土地が奪われていったのである。

そのためパレスチナ・アラブ人たちの抵抗運動は死にもの狂いの“テロリズム”にならざるを得ない。

もし、パレスチナ地域にヨーロッパ・ユダヤ(アシュケナジーム)が勝手に入り込んで、イスラエルを作らなかったら、土着ユダヤスファラディム)もパレスチナ人も何事もなく平和に暮らしていただろう・・・・・・。

まさに悲劇である。

現在、二級市民扱いのスファラディムは、イスラエル国民の6割を占めている。数の上では多数派である。政治的にまとまれば一大勢力になる。今後のイスラエルの政治状況は、ナショナリズムを強めつつある、このスファラディムの動き次第で決まるといっても過言ではないだろう。

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

ちなみに早稲田大学法学部出身で、現在、「副島国家戦略研究所(SNSI)」を主宰し、アメリカ政治思想・社会時事評論などの分野で活発な活動をしている副島隆彦氏は、著書『悪賢いアメリカ 騙し返せ日本』(講談社)の中で、イスラエルの政治の実態について次のように述べている。

参考までに紹介しておきたい。

「今のアメリカに住むユダヤ人たちのうち、金融財界人や学者、官僚になった人々が、グローバリスト・ユダヤ人である。彼らは、世界を自分たちの能力で管理してゆきたいと考えている。彼らはグローバリスト(地球主義者)であるから、『わが愛する祖国と大地』を持たない。だから愛国主義がない。世界中のすべてが彼らの居住地だからだ。

それに対して、古くから、イスラエルパレスチナ)の地に住んでいたユダヤ人たちがいる。彼らは、スファラディムと呼ばれる。イスラエルの保守党で、スファラディユダヤ人の系統であるリクードは、祖国愛の強いナショナリストである。だから、彼らはアメリカのグローバリスト・ユダヤ人たちの言うことを聞かない。

それに対してリベラル派であるイスラエル労働党の方は『パレスチナ和平』に積極的で、アメリカ・ユダヤ人の言うことをよく聞く。このように、ユダヤ人世界も大きくはグローバリストと反グローバリストに分かれて対立しているのだ。」

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

第1章で紹介した東京大学教授の鶴木眞氏は、著書『真実のイスラエル』(同友館)の中で、「スファラディムの現実」について次のような指摘もしている。

参考までに紹介しておきたい。

パレスチナにやってきたユダヤ難民は大きく2つに分けられる。1つはヨーロッパからのユダヤ難民であり、もう1つはアジア・アフリカからの難民である。

ヨーロッパからのユダヤ難民は、第一次世界大戦後のヨーロッパの経済的混乱から逃れてパレスチナへ移民してきた人々に始まり、第二次世界大戦直後はナチス強制収容所で生き残った人々の移民が主流であった。それ以後も、旧ソ連邦から共産主義体制を嫌って国外に移住したユダヤ人の多くがイスラエルにやってきた。

イスラエル建国を主に推進したのはアシュケナジームであった。彼らはパレスチナへの入植を進める中で、その生活の必要からさまざまな労働者組織を結成していったのだが、特に労働党などの左派政党は、シオン労働者組織や青年労働党1906年結成)などの労働シオニズムの思想にもとづいた入植の初期の段階に成立した組織をその前身としており、現代イスラエル国家の誕生よりも古い歴史を持っていた。それらの政党は政治活動だけでなく、活発な社会的、文化的活動をし、国家と社会をつなぐ存在として機能していた。そのような歴史的な背景を考えれば、アシュケナジームが労働党などの社会主義的勢力を支持する傾向が比較的強いことは当然のことと考えられよう。

だが、労働党の長期低落傾向を考えるとき、国家としてイスラエルが発展していくにつれて、政党それ自身がかつての社会的役割を消失していき、それがアシュケナジームの社会主義シオニズム政党離れを促してきたことが指摘されねばならないだろう。」

スファラディムたちはヨーロッパ的なイデオロギーであるシオニズムに共感してイスラエルに移民してきたのではなく、アラブ諸国における生活に不安を感じて移民してきたのであり、事実、アジア・アフリカ系のユダヤ人でも財力のある者の多くは欧米先進諸国へと移住してしまったのである。

イスラエルに移住したスファラディムたちの生活は国家により保障され、経済的発展にも支えられて著しい改善を見せたが、そのような生活を与えてくれた政党や労働組合(ヒスタドルート)など、社会の中枢にある諸組織の意思決定機関はアシュケナジームが支配していた。スファラディムたちは社会の意思決定に対して十分に働きかけることができないという点についての不満をつのらせたのである。

このような国家、社会の意思決定機関に対してスファラディムが十分に参加できないような状況は、イスラエル国会(クネセト)におけるスファラディム議員の比率をみてみれば理解できる。たとえば、1988年の選挙結果では、スファラディムは120人中39人にすぎなかった。このような状況が、イスラエルを建国以来政治的に指導してきた労働党に対する不満を生み出していったのである。」

スファラディムの持つアシュケナジーム中心社会に対する不満を吸収していったのが右派政党であるリクード党であった。しかも、スファラディムは長きにわたってイスラム教の支配の下での生活を強いられていたため、アラブ社会に対する怒りも強かった。そのような彼らにとって、リクード党のアラブ諸国に対する強硬姿勢には共感を持たせるものがあった。

また同時に、スファラディムがイスラエルにおいて新たな脅威にさらされていたことも確かである。その脅威とは、第三次中東(1967年)戦争後占領地となったヨルダン川西岸、ガザ地区における。パレスチナ人のイスラエル労働市場への参入である。

占領地から大量に流入した労働力は、イスラエルで最下層の労働者層を形成した。人手不足に悩むイスラエルにとって労働者を流入させることは不可避であったにせよ、そのことは下層労働者層に多数を占めるスファラディムにとっては脅威であり、その後のイスラエル国内経済の崩壊とそれにともなう失業率の増大によってその脅威は現実のものとして認識された。このため、リクード党の主張する排外的な民族主義的政策に共感したのであった。」

さらに、鶴木眞氏は次のように述べている。

「1972年から73年にかけて、イスラエルでは『ブラック・パンサー』と自称するスファラディ系の若者たちが暴れまわった。テルアビブやエルサレムのスラムで、彼らはイスラエルの支配層への抗議を大っぴらに行動に表したのであった。

イスラエルの支配者はヨーロッパからきた『白人』で、これに対し自分たちアジア・アフリカ系の被抑圧民は『色つき』だとし、それゆえに自分たちを『ブラック・パンサー』と呼んだのだった。

ニューヨークで、白人ユダヤ人たちの組織のうち最も過激な『JDLユダヤ人防衛組織)』と鋭く対立した黒人過激派がブラック・パンサーであったことも、当然計算に入れられていた。

イスラエルのブラック・パンサーたちは、『アラブや被抑圧者と手を組んでイスラエルの体制に決闘を挑む』と宣言した。彼らのこの主張には、イスラエル社会への次のような基本的認識が底流をなしていた。

『(シオニストたちは我々に)イスラエルこそ君たちの国だ、君たちもイスラエルに来て国家の建設に手を貸してほしいと語りかけた。だから我々はイスラエルに移民し、国家の建設を手伝った。しかし真実は、国家の建設が我々(スファラディ系)のためではなく、他人(アシュケナジー系)のためであったのだ。我々はただイスラエルで、底辺の労働力として働かされてこられたのだ。』(『アラブの解放』)

ブラック・パンサーの主張は、イスラエルにとってきわめて過激なものであったにもかかわらず、貧困層スファラディ系の人々の間に多くの共感者を得たのであった。ブラック・パンサーの活動は、体制側からの封じ込めと、内部の主導権争いによって初期のエネルギーは失われてしまった。しかし1977年の国会議員選挙では、イスラエルで唯一の非シオニスト政党である共産党(ラカハ)と協力して『平和と平等のための民主的変革運動』の名の下に代表を国会へ送ることに成功したのであった。〈中略〉」

「・・・・・・今日、イスラエル社会の中で、アラブ問題で最も強硬な意見を持ち、右翼政党の支持基盤となっているのは、スファラディユダヤ人なのである。イスラエルに移住してマジョリティの一員となったとはいえ、生活習慣や外見がアラブ人と大差のない彼らは、ユダヤ人であることをアシュケナジー系の人々に示す必要からも、ことさら自らのユダヤ性を強調する傾向がある。このユダヤ性の強調を最も単純明解に示すのが、アラブに対する強硬姿勢なのである。ブラック・パンサーなどの例外を除いて、スファラディユダヤ人がアラブ側からの連帯の呼びかけに耳を貸す様子は、今のところ全くない。」

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

デイヴィッド・サスーン

デイヴィッド・サスーンは、インドを拠点に活動したユダヤ人の商人。バグダード出身。

スペインに起源を持つセファルディムの出身で、父サレハはバグダードと現在のイラク南部を支配したパシャの主任会計を勤め、同市のユダヤ人コミュニティーを率いる資産家だった。その後ダウード・パシャによるユダヤ人迫害を逃れてペルシャを経て一家でボンベイに移住し、1832年にサスーン商会を設立、イギリスの東洋貿易に多大な貢献をした。特に阿片戦争のきっかけとなった当時のアヘン貿易において重要な位置を占めていた。その後は香港、上海にも営業所を構える。さらに、南北戦争によりアメリカ産綿花の輸出が途絶えたのを機にインド産綿花の輸出も成功させた。これらの功績が認められて1853年にイギリス国籍を取得。

また、デイヴィッドはボンベイユダヤ人コミュニティーを率いると共に、同地やプーナ、故郷のバグダッドなどに病院やシナゴーグ、学校を建設するなど慈善活動も行った。ボンベイでは英語での教育を施すEEE高等学校やサスーン病院を設置した。デイヴィッド自身は生涯英語を話せず、バグダード時代からのアラブ風の生活様式で生涯を過ごしたが、息子のアブドゥッラーにはイギリス人としての教育を施した。1864年にプーナにて死去した際はその社会貢献からイスラム教徒、キリスト教徒、パルシー(ゾロアスター教徒)、ヒンズー教徒も哀悼を捧げた。

息子のアブドゥッラーは後にアルバートと改名し、イギリスに渡って準男爵となった。18世紀、サスーン家は世界で最も裕福だった一族の1つだった。

ムンバイ(旧ボンベイ)のデイヴィッド・サスーン図書館、サスーン・ドックは彼の名にちなむ。

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ピーター・ドラッカー

ピーター・ファーディナンドドラッカーは、オーストリア・ウィーン生まれのユダヤオーストリア経営学者。「現代経営学」あるいは「マネジメント」(management)の発明者。

他人からは未来学者(フューチャリスト)と呼ばれたこともあったが、自分では「社会生態学者」を名乗った。父・アドルフ・ドルッカー(ウィーン大学教授)と母・ボンディの間の子で、義理の叔父に公法学者・国際法学者のハンス・ケルゼン(母方の叔母であるマルガレーテ・ボンディの夫)がいる。ドラッカーの自著によれば、父親はフリーメイソンのグランド・マスターだった。

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フランクリン・ルーズベルト

フランクリン・デラノ・ルーズベルトは、アメリカ合衆国の政治家。姓はローズベルト、ローズヴェルトとも表記。

民主党出身の第32代アメリカ合衆国大統領(1933年 - 1945年)。

FDRという略称でよく知られている。

概説より

最高裁判事の人事への介入による三権分立の民主主義原則への抵触や、大戦中に日系アメリカ移民に強制収容を行った事や、政権期間を通じて行われたアフリカ系アメリカ人公民権運動に対する事実上の妨害という人種差別的観点から行われた政策は、その立場を問わず各方面からの大きな批判をまねいただけでなく、アメリカにおける人種差別の解消を遅らせる要因の1つとなった。

民主党政権としての「貧困層」と「人種マイノリティ」という別々の背景を持ったアメリカ社会における弱者に対する矛盾した態度の解決は、1960年代のジョン・F・ケネディとリンドン・B・ジョンソンの政権まで持ち越された。

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ローザ・ルクセンブルク

ポーランドに生まれドイツで活動したマルクス主義の政治理論家、哲学者、革命家。

彼女はポーランド王国社会民主党およびポーランド王国リトアニア社会民主党の理論家であり、のちにドイツ社会民主党、ドイツ独立社会民主党ドイツ社会民主党左派)に関わるようになった。機関紙『Die Rote Fahne(赤旗)』を発刊し、革命組織スパルタクス団を母体としてドイツ共産党を創設、1919年1月にはベルリンでドイツ革命に続いて1月蜂起を指導するが、国防軍の残党やフライコール(義勇軍、Freicorps)との衝突の中で数百人の仲間とともに逮捕、虐殺される。死後、多くのマルクス主義者や社会主義者のあいだでは、同じく虐殺された盟友のカール・リープクネヒトとともに、革命の象徴的存在とされている。

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デヴィッド・リカード

自由貿易を擁護する理論を唱えたイギリスの経済学者。各国が比較優位に立つ産品を重点的に輸出することで経済厚生は高まる、とする「比較生産費説」を主張した。スミス、マルクスケインズと並ぶ経済学の黎明期の重要人物とされるが、その中でもリカードは特に「近代経済学創始者」として評価されている。

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イツハク・ナヴォン

イスラエルの政治家、外交官、劇作家。イスラエルの五代目大統領を務めた。

母方は著名なカバラ主義者のハイム・ベン=アッタールの子孫である。

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シャウル・モファズ

イスラエルの政治家、軍人。カディーマ党党首。副首相、交通相、国防相参謀総長を歴任した。

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フランコモディリアーニ

ローマで生まれ、アメリカに帰化したアメリカの経済学者。1985年にノーベル経済学賞を受けた。

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エドワード・バーネイズ

第一次世界大戦中にトーマス・ウィルソン大統領が設立した大衆情報委員会に所属し、アメリカの大戦への貢献が「全ヨーロッパに民主主義をもたらす」ことを目的としている事を喧伝する活動を展開し、功績を認められたバーネイズは、ウィルソンによって1919年に開かれたパリ講和会議に招聘されている。

第一次世界大戦中にドイツ軍が利用したことでネガティブなイメージが付きまとった「プロパガンダ」という単語にかえて、彼は「広報(PR: Public Relations)」という単語を使用するようになった。

バーネイズの娘アンに対するBBCのインタビューによれば、バーネイズは、国民の民主的な判断は、「信頼に足るものでも」恐れるべきものでもなく、アメリカの大衆はいとも簡単に間違った政治家に投票し、また間違った選択をしようとし、またそれらによって導かれなければならなくなっているとバーネイズは感じ取っていた。大衆を導く物として、バーネイズはある種一貫した「賢明な専制」的思想が必要だと考えていたようである。

こうした彼の考えには当時最も著名なアメリカの政治コラムニストであったウォルター・リップマンの影響がかなりあった。バーネイズとリップマンは合衆国公共情報委員会で共に活動しており、彼の代表作「プロパガンダ」でもリップマンを多く引用している。

集団心理の動きとメカニズムを理解できれば、企画者の意のままに、感づかれることなく大衆を操作し、組織化することは可能であり、近年のプロパガンダは、少なくともある焦点、ある限度以内において、これが可能なことを証明している。

バーネイズは、この世論形成の科学的技法を「合意工作(engineering of consen)」と名付けている。

バーネイズ自身その業績は多いが、一方で著名なクライアントが多くいた事でも知られている。一例として、カルビン・クーリッジ合衆国大統領、プロクター・アンド・ギャンブル、CBS、ユナイテッドフルーツ社、アメリカン・タバコ社、ゼネラル・エレクトリック、ダッジ・モーターズなどに加え、公衆衛生サービス公共のフッ素添加推進者の多くはバーネイズのクライアントであった。

著名で有力なクライアントの事業に貢献しながら、バーネイズは古典的出版業界と心理学・社会学の技法を結合し、「宣伝の科学」と呼ばれる広告革命を実現していった。

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