誰かのブログ

記録用に使っています

黒い貴族

 

黒い貴族

1870年から1929年にかけてのイタリア王国のローマ問題(バチカン捕囚)において、ローマ教皇教皇庁を支持する立場をとったローマ貴族たちの呼称。

「黒い貴族」たちは、ローマ教皇領を占領して1870年9月20日にローマ入場を果たしたイタリア王国の統治者サヴォイア家に忠誠を誓うことを拒み、教皇ピウス9世の側についた。彼らはその先祖がかつて教皇庁に仕え、教皇により貴族に列せられた者たちの子孫で、教皇庁教皇の宮廷において、枢要な地位を占めていた。彼らは自分たちの住むローマの宮殿・邸宅の扉を閉じて、権力を失った教皇の喪に服した。

1929年のラテラノ条約の締結により、「黒い貴族」たちはイタリア王国バチカン市国二重国籍者となった。「黒い貴族」に属する貴族家門の多くは、教皇に仕える貴族儀仗兵(Guardia nobile)を出していた。1931年、スペイン王アルフォンソ13世は、カトリック諸国の全ての貴族家門出身者に、貴族儀仗兵となる資格を認めるよう願い出たが、教皇ピウス11世はこれを認めず、1970年に廃止されるまで教皇忠誠派のローマ貴族のみが貴族儀仗兵を出し続けた。

1939年に教皇ピウス12世となったエウジェーニオ・パチェッリも、「黒い貴族」に属する貴族家門の一員である。「黒い貴族」を構成する主な貴族家門としては、コロンナ家、マッシモ家、オルシーニ家、パラヴィチーニ家、ボルゲーゼ家、オデスカルキ家、サケッティ家、ルスポリ家などがある。すでに家系の絶えたものとしてはサヴッリ家、カエターニ家、コンティ家などがある。

改革派の教皇パウロ6世が彼らから恩恵や特典を剥奪すると、教皇庁と「黒い貴族」たちの間には禍根が残った。1977年5月、エルヴィーナ・パラヴィチーニ公夫人を指導者とする一部の「黒い貴族」は、聖ピオ10世会の創立者マルセル・ルフェーブル大司教の支持を表明した。

黒い貴族 - Wikipedia

現在の金貸しの起源とも言える「ヴェネチアの黒い貴族」とは誰なのか?

西暦480年頃に西ローマ帝国が滅びた後、ローマ帝国の一部の貴族がヴェネチアに避難した際に、特権を享受していた一部のユダヤ人もヴェネチアへ避難し、ヨーロッパの貴族階級に同化していった。その中で現地人より色が浅黒かったので「ヴェネチアの黒い貴族」と呼ばれるようになる。彼らはキリスト教国家とイスラム教国家の間の地中海貿易を独占していた。そして黒い貴族は地中海貿易から大西洋貿易に移るためにヴェネチアからオランダへ、さらにイギリスへと移動していき、世界初の株式会社であるイギリス東インド会社を設立する。

ベネチアの黒い貴族とは誰なのか? - るいネット

ヴェネチアというものを日本人はほとんど知りません。非常に間違った形式的な歴史を教えられます。しかし、ヴェネチアというのは西暦480年頃に西ローマ帝国が滅びた後、ローマ帝国の貴族の一部がヴェネチアに避難してできたのです。ヴェネチアイタリア半島の東の奥のほうに位置しますが、そこを基地として避難場所としてローマ帝国の貴族の一部がそこに移動しました。そこからヴェネチアイルミナティの正しい世界首都として成長していくように段取りがつけられたのです。

イエズス会を組織したのはヴェネチアの「黒い貴族」だった - 太田龍

ヴェネチアが起こした重要な事件はたくさんありますが、そのうちの一つは11~13世紀に起こった十字軍戦争です。十字軍戦争はカトリックローマ法王庁が旗を振ってエルサレムイスラムから取り戻すと称して、4回くらい大戦争を起こします。しかし、カトリックをそういうふうに煽動して十字軍戦争を起こすためには、西ヨーロッパから軍隊がエルサレムまで遠征するための途轍もない多額の軍資金が必要になるわけです。それから軍隊を出すために、艦隊を組織しました。そのための資金は全部、ヴェネチアの「黒い貴族」が用意しました。用意したといっても、タダでくれるわけではありません。ローマ法王庁とかフランスや英国とかスペイン、ドイツとかの国々の王侯貴族に軍資金を貸し付けて「利子」を取るわけです。

そしてヴェネチアイスラムにも目をつけます。それからビザンチン東ローマ帝国の後継者としての東方ギリシア正教をも支配下に入れます。この三つの地域にヴェネチアは目をつけるのです。

そのような勢力を利用して、カトリックイスラムを戦わせ、カトリックと東方ギリシア正教を戦わせます。そして自分たちがそれぞれの地域に軍隊を動員して、十字軍戦争をだんだん大規模なものにしていく。大規模なものにしていくほどヴェネチアの黒い貴族はたくさんのお金を貸し付けて、利子を生み出していきます。だから十字軍戦争というのは、ヴェネチアの黒い貴族が、最初から最後まで振り付けをしているわけです。

そういうことが日本人にはまったく知らされていません。

イエズス会を組織したのはヴェネチアの「黒い貴族」だった - 太田龍

「東方見聞録」で有名なマルコ・ポーロも、ヴェネチアの黒い貴族が送り出したエージェントだったのです。

(中略)

大航海時代の背景はポルトガルとかスペインとか英国とかという、それぞれの国家ではなく、ヴェネチアに浸透する金融寡頭権力だったのです。そのようにして彼らは世界支配をさらに進めたわけです。

そして最後はキリスト教カトリック教会を大分裂させることでした。1517年、マルチン・ルターがローマ法王庁に挑戦して、免罪符を否定する抗議の紙を張り出したら、あっという間に非常にわずかの時間に、全ドイツに広がりました。しかし、そのルターの背後にいたのはヴェネチアの「黒い貴族」だったのです。ルターをヒーローに仕立て上げて、全ヨーロッパ、とくにドイツで、カトリックカトリックに反対するプロテスタントという勢力が起こり、キリスト教会は真っ二つに分かれるわけです。

そして10~20年後にヴェネチアの「黒い貴族」はプロテスタントで脅かされているキリスト教会、カトリック教会に対して、プロテスタントと戦うための「イエズス会」という新しい修道会を組織したのです。イエズス会の創設者イグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルを選抜して任務を与え、お金を提供して強固な組織にしたのはヴェネチアの「黒い貴族」だったのです。

また、ヴェネチアの「黒い貴族」はカトリックを分裂させて両方を嗾(けしか)け、両方に資金を与えカトリック教会の分裂とすごい殺し合いを、背後で操縦したのです。

プロテスタントカトリックの争いがもっとも激烈に発展したのがドイツで、ドイツでは両派の宗教戦争によって人口が半分程度になってしまったという地域があるくらいです。ヨーロッパのキリスト教会の権威を壊滅的な打撃を与えることによって、ヴェネチアの黒い貴族は、彼らの世界支配を次の段階に進めようとしたわけです。

イエズス会を組織したのはヴェネチアの「黒い貴族」だった - 太田龍

ヴェネツィアは9世紀頃より浅瀬に阻まれ攻撃されにくいラグーンに建設され、ドブロクニクなどの海賊との交易で友好関係を築くことで制海権を獲得し、エーゲ海を経て、アラブ・イスラム文明と通商を行うに至った。

その過程でアラビア数字、手形、商業簿記などを取り入れて、暗黒の中世ヨーロッパで最初の商業文明を形作ってきた。

金融家たち、デル・バンコは、彼らの多くが地中海イスラム世界のユダヤ教徒を祖先としており、ロンバルディア人より多少色黒であったために、「黒い貴族」とも呼ばれた。

ジェノアフィレンツェなど北イタリアに勢力を拡大し、ルネサンス運動のパトロンとなる。

15世紀イベリア半島の北端山岳地方(ガリシアなど)から、600年を経て「レコンキスタ」がイスラムを駆逐する。

彼らはゲルマン部族の後裔を名乗るキリスト教徒だが、言語はラテン系のスペイン語であった。

アラブ、ユダヤの知識と技術を活用して、新大陸を侵略する。この「侵略」が如何にもゲルマンの民族性らしいのだが、それはさておき、同時に厳しい異端狩りを開始する。

追い詰められたイスラム北アフリカに逃げ、ユダヤ教徒は広範なネットワークにより北アフリカ、中東、ポルトガル領ブラジルそして、スペイン領となったネーデルラントに逃れた。

ネーデルラントユダヤ人はこの交通の要路(港湾と河川)を活かして、西欧・北欧の商業覇者となる。

ユダヤ人はネーデルラントのスペインからの自立に重要な力を示したので、ここだけはユダヤ人追放のない国土となった。

17世紀。イギリスはクロムウェルの生協と革命が成功し、イギリスはユダヤ人を受け入れることとなる。オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)がイギリス国王となり完成される。(現在ビルダーバーグ会議の主宰はこのオラニエ公の子孫である)次いで18世紀フランス大革命により、ユダヤ人は概ね西ヨーロッパの全域で商業活動とりわけ両替・金融業を保証されることとなる。

この間、デル・バンコの一族はネーデルラント、フランクフルト、イングランド、フランスの金融業と血縁を結び、国家財施を預かる宮廷ユダヤ人となり、さらに西欧王族とも血縁を深めてゆく。

これが「黒い貴族」と「青い血」の合流である。

もうすぐ北風が強くなる 国際金融資本の成立

こうして、国際金融はロンドン(ロンバード街)、チューリッヒを中心に、オランダ、フランクフルト、そして隠れた本流はロンバルディアという配置が出来上がった。

この配置は今も健在なようである。

一方、ブラジルのユダヤ人はオランダが開発したニューアムステルダムに多くが移住し、後にニューヨークとなっても、成長する新大陸を牛耳ることとなる。

しかし、アメリFRBの資本構成はヨーロッパ優位のようである。

18・19世紀。彼らの蓄えた資金は「金利」、「与信機能」と「無記名有価証券」により、産業資本に投資される。「金利」によって産業資本は「成長」を強制されることとなる。産業革命とその爆発的成長である。金融資本による産業への投資も一種の「搾取」である。

いわゆる「資本主義」は帝国主義へと向かい、アングロサクソン的武力とユダヤ的金融資本の合流はほぼ世界を征服するに至る。この過程で東欧系ユダヤ人(アシュケナージ)は多くの社会主義者を排出し、ロシア革命を勝利する。結果的に国際金融資本の支援もあったが、国際金融資本がロシア革命を引き起こしたと考えるのは「贔屓の引き倒し」であろう。

これが、今に至る国際金融資本の大元達。金融の「世界支配層」の歴史である。

彼らが9世紀のヴェネツィアに現れる前に、彼らは何処から来たのか。

滅亡したカルタゴの子孫と言う説もあるようだが、確かなことはカルタゴを含むフェニキア人の発祥地。現在のシリア、レバノンパレスチナの港湾に拠点をおく、貿易民族である。(ローマ時代も現代もユダヤ教徒は多い)。

また、海上貿易には制海権の確立が必須であるので海賊を懐柔できなければならない。造船術は少なくとも海賊並以上が必要なことを考慮するなら、彼らは元来海賊だったと考えるのが自然だろう。B.C3000年期エーゲ海クレタ文明の末裔と考えられる。

B.C1300年期古代エジプトの碑文に見られる「海の民」と言い切って良いだろう。

もうすぐ北風が強くなる 国際金融資本の成立

 

イエズス会と日本

 

イエズス会

1534年8月15日、イグナチウス・デ・ロヨラが6人の同志とともにパリのモンマルトルの丘に集まり誓約を立て、1540年に教皇の認可を受けて創立した司祭修道会。

イエズス会とは - コトバンク

反(対抗)宗教改革の尖兵として戦闘的なまでの海外布教で知られる。日本へはザビエルが1549年、中国へはリッチが1583年に布教第一歩をしるした。南アジア、新大陸での活動も旺盛。1773年いったん解散するも、1814年再興。1908年日本再渡来、上智大学六甲学院などの経営ほかを行っている。

イエズス会とは - コトバンク

厳格な軍隊的統制と教皇への絶対的忠誠によって反(対抗)宗教改革運動の中心団体として、プロテスタントへの攻撃と全世界へのカトリックの伝道に従事した。この会の活動によってカトリック教会内部の腐敗が排除されて、カトリックの近代化がすすみ、南ドイツがプロテスタントの勢力圏からカトリック圏にもどった。ヨーロッパ外への伝道はきわめて熱烈で、ヨーロッパで失われたカトリックの地盤を補った。

イエズス会とは - コトバンク

18世紀半ばごろに最盛期に達したが、他のカトリック会派との摩擦が絶えず、1773年教皇クレメンス14世によって禁止された(1814年復活)。

イエズス会とは - コトバンク

・・・ちょうどこの時期、宗教改革ルネサンスを経た西ヨーロッパは世界史の主導権を握り、とくにローマ教皇から世界の領土分割の認可をうけたポルトガルイスパニア両国は、カトリック布教の強烈な意志に支えられ、東西からあいついでアジアに到達し、活発な貿易活動を開始した。ポルトガル人が1543年種子島に来航し、イエズス会宣教師ザビエルが49年鹿児島に上陸するにいたった背景は以上のごとくである。イエズス会はゴアのインド管区の下に日本とシナの二つの布教区を置いたが、82年(天正10)日本は準管区に昇格してシナ布教区を管下に置き、1609年(慶長14)さらに独立管区としてシナ、マカオの2準管区を管轄した。

イエズス会とは - コトバンク

会の成立と根本精神

イグナティウスはもと勇敢な騎士であったが、パンプロナの戦いで負傷し、その病床で回心してキリストに仕える騎士になる決意をした。マンレーサの洞窟(どうくつ)での1年間に及ぶ祈りと苦行によって、彼は神の豊かな恵みを受け、その霊的体験をもとにして『霊操』を著した。彼はこの小冊子によって人々を指導したが、「キリストの国」のために働こうとするフランシスコ・ザビエルら6人の同志と、1534年イエズス会を結成し、1540年に教皇によって認可された。

イエズス会に入会する者は、まず『霊操』によって修行し、イエス・キリストの如(ごと)く生き、働き、「より大いなる栄光のために」Ad maiorem Dei gloriam 神と人類に奉仕し、献身(けんしん)する者となる。イエズス会という名も、「イエスの如く」生きる人の集まりという意味である。

それまで修道生活に不可欠とされていた修道征服、共同で唱える聖務日課、定住制などを廃止し、時代の要請に即応できる生活様式が採用された。清貧、貞潔、従順の三誓願をたてるが、衣服や食事その他では普通の教区司祭と同様に、土地の風習に適合させる。全人類の救済のためにどんな仕事でもどんな所にでもすぐ赴いて行ける即応性を重んじた。ことに、教会の最高指導者であるローマ教皇の命令であれば、どんな不便な所でも布教に赴くことを示すため、正式会員は特別な誓願をたてる。ザビエルもローマ教皇の命令によって、東洋の布教に従事し、1549年(天文18)ついに日本にまで伝道にきたのである。

イエズス会とは - コトバンク

組織と会憲

イグナティウスは、当時の個人主義に対してキリスト教的共同体を強調し、プロテスタント的主観主義に対しては、神の国の客観的秩序をたいせつにしたので、それらを支える精神として従順を重視した。そこで、『霊操』の精神を社会的組織にまで具体化するために、『イエズス会会憲』を書いた。会の運営にあたっては、総会長または代理、顧問、管区長、各管区代表を構成員とする総会議が最高の権威をもち、総会長を選ぶ。その総会長が全会員を指導するが、世界を数地域に分け、その地域をまた数管区に分け、管区長を置き、管区の統括を行わせる。管区は事業や場所によって多くの修院に分け、そのおのおのは院長によって指導される。各会員は長い養成機関をかけて、学問的にも霊的にも徹底的な教育を受けるので、多くの点で自主的判断に任せられる。

イエズス会プロテスタンティズムに反対するために創立されたのではなかったが、その当時おこったルターの宗教改革に対して、同会はカトリック復興運動のために、教会の最前線で闘った。このため、16、17世紀のヨーロッパの大部分がカトリック信仰にとどまることになった。また、当時新しく発見された東洋やアメリカ大陸にもキリスト教を布教するために貢献した。18世紀後半にイエズス会はブルボン王家の絶対主義との抗争で、教皇によって解散させられるが、約40年後には復興されて、今日に至っている。イエズス会はまた教育政策の面で歴史的に大きな役割を果たしている。創立当時でも数百の中学校、大学を経営し、同会独自の学事規定 Ratio studiorum は、その後のヨーロッパの高等教育の基礎となった。同時に地理学や民俗学言語学天文学、物理学などにおける学問的研究でも、貴重な業績をあげた。

1983年時点の会員数は2万7000人(ヨーロッパに約1万、北米に6500、中南米に4000、アフリカに1000、アジアに4500など。日本には366)。教育に従事する会員が多く、たとえばアメリカでは会員の3分の2を占め、49の高校と、フォーダム、ジョージタウンセントルイス、マーケットなど28の大学を経営している。日本では東京に上智(じょうち)大学、神奈川に上智短大、広島にエリザベト音楽大学があるほか、神奈川に栄光学園、兵庫に六甲学院、広島に広島学院の中・高等学校を経営している。

イエズス会とは - コトバンク

創設間もないイエズス会が急速に世界展開できた理由

1517年にマルティン・ルターの「95カ条の論題」によって宗教改革がはじまると、カトリック側では、その動きに対抗するための「対抗宗教改革」が始まります。その中核になったのが、1534年に創設されたイエズス会でした。

イエズス会を創設したイグナティウス・ロヨラ(1491~1556)は、スペイン・バスク地方の騎士の家に生まれ、軍人として活躍しますが、29歳の時に戦争で負傷し、父親の城で療養生活を送ります。そのときにキリスト伝などに触れ、聖人のような自己犠牲の生活にあこがれを持つようになりました。

ケガが快癒した後、ロヨラ修道院に入り、エルサレムを巡礼し、そしてパリ大学で神学を学ぶようになります。そこで出会ったのが6人の同志です。

フランス出身のピエール・ファーヴル、スペインのバスク出身のフランシスコ・ザビエル、スペイン人のアルフォンソ・サルメロン、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、そしてポルトガル人のシモン・ロドリゲスとともに、パリのモンマルトルの丘に登り、神に自分の生涯をささげる誓いを立てました。これは、「モンマルトルの誓い」と呼ばれます。これがイエズス会発足のきっかけとなります。

ロヨライエズス会の初代総長になり、それからイエズス会はすぐさま世界各地で宣教活動を展開します。では、なぜイエズス会は非常に早く世界的機関として発展することができたのでしょうか。

ロヨラとの「血筋」

イグナティウス・ロヨラは、幼い頃には父親が聖職につけようとしていたようですが、前述のように本人は軍人の道を志し、実際に軍人として過ごしていました。ところが1521年にパンプローナの戦いにおいて、砲弾が足に当たって負傷し、ロヨラ城で療養生活を送ることを余儀なくされました。この療養期間にたまたま『キリストの生涯』、さらにはキリスト教の聖人伝集『黄金伝説』を読んだことで、彼の人生は一変します。キリストやその弟子たちの生涯に心を打たれたロヨラは、自らも聖地に赴き、さらには非キリスト教徒を改宗させようと決心するのでした。傷が癒え、エルサレム巡礼の旅に出たのは30歳の時でした。

ロヨラは元来軍人でしたから、彼が考えた組織は、軍隊に似ることになりました。イエズス会教皇の意を汲んで世界中で宣教活動をし、規律を重んじたことは、その表れです。

イエズス会は、単なる宣教集団ではありませんでした。というのも遠く離れた土地で宣教活動をするためには経済基盤が必要となります。それを維持するため商業活動も彼らの宣教活動と表裏一体でした。そして取り扱う商品の中には武器も含まれていました。イエズス会の会士を受け入れた土地の為政者にしてみれば、イエズス会には武器をもたらしてくれる「死の商人」でもあったのです。ヨーロッパの軍事革命の成果をアジアにもたらしたのはイエズス会だったと言っても過言ではないのです。

ただ、この説明だけでは宣教を目的とするイエズス会が、なぜ商業活動でも成果を上げることができたのかの説明としては十分ではありません。他にも要因があるのではないでしょうか。

アメリカ人のケヴィン・イングラムという歴史家によれば、ロヨラは、「コンベルソ」(改宗ユダヤ教徒ユダヤ教からキリスト教に改宗した人々)たちに共感を示していたとされます。それだけでなく、どうやらロヨラの家系はユダヤ人につながっていたのではないか、というのです(Kevin Ingram, Converso Non-Conformism in Early Modern Spain: Bad Blood and Faith from Alonso de Cartagena to Diego Velázquez, Palgrave Macmillan;2020)。

ロヨラの母方の祖母は商人でした。そして、この時代の商人の多くはユダヤ人でした。そのことから、母方はユダヤ人の家系ではなかったかという推測が成り立つのです。

敬虔なカトリックの国であるスペインでは、なによりも「血の純潔」が重視されていました。「血の純潔」とは要するに、旧キリスト教徒(祖先代々のキリスト教徒)が尊ばれるということで、ユダヤ教からの改宗者、あるいはその子孫は社会の中で、特定の遮断から排除される存在でした。つまり新キリスト教徒(1492年のレコンキスタ達成によるユダヤ人追放以降にキリスト教徒になった人々)は、カトリック教会の中で公職につけなかったのです。

イエズス会とコンベルソ、その深い関係

ロヨラは、パリに1528年から1535年まで滞在しました。その間に、ロヨラと彼の仲間は、研究のためにコンベルソ商人の財政的援助を受けていたのです。なかには、バルセロナパトロンからの支援も含まれていました。

さらにロヨラは、スペインのブルゴス出身の複数のコンベルソ商人とコンタクトをとるようになります。彼らは、当時の代表的商業都市ブリュージュアントウェルペンアントワープ)の商業集団との関係が強かった人々です。そしてこれらの商人は、イエズス会設立以降も支援者となってくれた人々でした。

こうしたもともとロヨラやその仲間を支援してくれたコンベルソ商人との結びつきが、その後の宣教を支える商業活動に繋がったと考えるのが自然でしょう。

すでに述べたように、イエズス会創設時には、ロヨラを含め全部で7名のメンバーがいました。前出の歴史学者ケルヴィンによれば、この7人のうち、ロヨラを除いても、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャがコンベルソであったことは公然の秘密であり、さらにロドリゲス、サルメロン、ザビエルもコンベルソだった可能性があるといいます。

実際に、初期のイエズス会のエリートは新キリスト教徒で占められていました。したがって、イエズス会の宣教には、ユダヤ教徒の血をひく新キリスト教徒による宣教が多くを占めていたのです。

さらに言えば、少なくともロヨラの時代のイエズス会は、新キリスト教徒を構成員とすることで発展していきました。ロヨラは、イエズス会は全てのキリスト教徒に開かれた組織であるべきだと考えていました。ただ、その状況はロヨラが亡くなった直後こそ第2代総長として、コンベルソであるディエゴ・ライネスの就任という形で引き継がれますが、その状況も次第に変化し、コンベルソは旧キリスト教徒との争いで勝てなくなっていきました。

しかし、もしロヨラがコンベルソを排斥していたなら、イエズス会の急速な発達はなかったのではないでしょうか。「血の純潔」は、本来もっとも忠実なカトリック信者が集まるべきイエズス会により、否定されたとさえ言えるのです。

イエズス会のアジア進出とザビエル

大航海時代の先陣を切るようにポルトガルが海外に進出し、新たな土地を発見するたび、ローマ教皇はその土地の征服を認める勅書を与えていました。カトリック圏を広げたいローマ教皇は、カトリック国であるポルトガル、さらにはスペインの領土拡大を正当化する役目を果たしていたのです。

そのためポルトガルは、その勢力範囲内において、宣教活動することができたのです。拠点都市には司教座が建設され、カトリック宣教のための根拠地となりました。西アフリカ沿岸から喜望峰を回って東アフリカ沿岸、さらにインドへと続く航路の途中に、ポルトガルは勢力を広げていき、カトリックの宣教も行われました。そしてその中心となった都市はインドのゴアでした。

ポルトガル国王ジョアン3世(在位:1521~1537)は、そのゴアの異教徒たちをキリスト教に改宗させるための宣教師派遣を、世界宣教を考えていたイエズス会に依頼しました。ロヨラは会の中から宣教師を選びますが、直前に急病に罹ってしまい、急遽、創立メンバーの一人であるフランシスコ・ザビエルを指名します。こうしてザビエルはアジアへと向かうことになりました。1541年、モンマルトルの丘の誓いからわずか7年後のことです。

ザビエルがゴアに到着したのは1542年のことでした。しかしザビエルによるインドでのキリスト教化は成功したとは言えませんでした。ザビエルは1545年には、東南アジア最大の貿易港であるマラッカで宣教活動に当たります。さらに東南アジア各地を回りながら宣教活動をしマラッカに戻ったところで、ザビエルはアンジローという名の日本人に出会います。アンジローから彼の日本人の勉強熱心な性格などを聞いているうちに、ザビエルは日本でなら宣教活動も大いに成功するのではないかと考えるようになります。こうしてザビエルは日本に向かう決心をするのでした。

1549年に、ザビエルはアンジローとともに戦国時代の鹿児島に到着しました。ここからザビエルは日本人のキリスト教化に尽力します。

ポルトガルと貿易したくて宣教を許可

ザビエルたちが鹿児島にたどり着いたとき、薩摩の大名・島津貴久はザビエルたちの来訪を歓迎したようです。それはともにやってきたアンジローが、ザビエルたちがポルトガル商人と関係が深いことを説明したからでした。薩摩はポルトガルとの貿易で多くの富を得ようと考えたのでした。

しかし翌年、ポルトガル商船が平戸に入港したことを知った島津貴久は、薩摩での宣教を禁じてしまいます。薩摩にいられなくなったザビエルたちも、平戸に移っていきました。

一方、平戸の大名・松浦孝信は、イエズス会の宣教を許可します。もちろん、ポルトガルとの貿易を期待してのことです。その願いは現実となり、平戸には毎年、ポルトガル船が来航することとなり、松浦孝信は貿易で多額の利益を得、多数の鉄砲や武器を購入することができたと言います。

ザビエルたちは、ポルトガル商船にどの港に入港するかを指定することができたようです。つまり各地の大名にしてみれば、ポルトガルと貿易するためには領内での宣教を許可するしかありません。ザビエルたちイエズス会士が直接貿易に乗り出していたかどうかはわかりませんが、少なくともポルトガル商船との窓口のような形で、貿易に関わっていたのは間違いないようです。イエズス会にしてみれば、そこで得た利益が、日本での宣教のための費用に費やされました。このようにイエズス会の宣教活動とポルトガル商船による貿易とは表裏一体の関係にあったのです。

ザビエルは2年ほど日本に滞在しましたが、彼はゴアを中心とするアジア地域の責任者だったためインドに帰る必要が生じます。そこで日本を離れ、インドに向かうのですが、その途上、マカオ近くで亡くなってしまいます。

しかし日本での宣教は、もちろん苦難もありましたが、残されたイエズス会士によって力強く進められていきました。その活動を支えたのは、やはりポルトガル商人のバックアップでした。

そしてイエズス会の宣教が認められた領地の港には、ポルトガル船がやってきました。そこで大名たちは鉄砲をはじめとするヨーロッパの武器を手に入れることができました。そうしたことを考えれば、イエズス会士たちには「死の商人」的要素もあったと言えます。そのため大名達は、競うようにして領内でのイエズス会の宣教を認めたのです。

イエズス会が日本に定着していった背景にはこのような事情がありました。

コンベルソとの関係があったからこそ貿易で力を発揮した?

ただそれだけでは、イエズス会が世界各地での宣教を続けることができたのかの説明には不十分のように思います。経済的基盤を作るために、イエズス会士らは武器を含めた貿易にもタッチしましたが、なぜそんなことが可能だったのかという疑問への解答がないからです。

なぜイエズス会士は世界的な貿易ネットワークに関わることができたのか。その答えは、前述のコンベルソとの関係にあるのではないか、私は考えています。

イエズス会は単にポルトガル商船に寄港地を指定するだけでなく、イベリア半島のコンベルソ商人のネットワークと密接に結びついていたのではないでしょうか。血の純潔が重視されるスペインやポルトガルでは、新キリスト教徒は第一線で活躍することはできません。コンベルソ商人は活躍の場を国外に求めたのではないでしょうか。その部分では新キリスト教徒が多いイエズス会にも通じるものがあります。だからこそ、イエズス会も創立当初から世界宣教を志していたのかもしれません。

イエズス会は、先祖代々の純粋なカトリック信者の集団ではなく、ユダヤ人を祖先とする人々を含んでいた。そのために彼らのネットワークにアクセスすることができた。その構造があったため、ロヨラの時代に、急速に海外展開できた理由ではないかと思うのです。

創設間もないイエズス会が急速に世界展開できた理由(2021年2月5日)|BIGLOBEニュース

ユダヤの民の神秘』が信頼に値するものだとすれば、イエズス会カトリックでありながら、実体はユダヤ人組織であり、親プロテスタント的なフリーメーソンでさえ支配していたということになります。

山中豊吉氏の指摘『キリスト教に隠れたユダヤ教の陰謀』は、やはり慧眼と言えるでしょう。

イエズス会の正体・slicer93(彼らがどうしてもハルマゲ大戦を望むなら、全人類VSイエズス会となる筈です) 小沢内閣待望論

「日本人奴隷は神の恩寵」秀吉の逆鱗に触れたイエズス会の解釈

ザビエルの後を受け継ぐかのごとく、登場したのがルイス・フロイスである。1532年、フロイスポルトガルリスボンに誕生した。16歳でイエズス会に入り、その後はインドに渡海した。フロイスが日本への渡海を果たしたのは、永禄6(1563)年のことである。

肥前横瀬浦(長崎県西海市)に上陸したフロイスは、スペイン出身の宣教師、フェルナンデスから日本語と日本の習俗について教えを受けた。その後、織田信長豊臣秀吉に接近し、円滑に布教活動を行うべく奮闘した。これまでもたびたび引用した、フロイスの『日本史』は当時の日本を知る上で、貴重な史料である。

キリスト教の布教と同時に盛んになったのが、南蛮貿易である。天文12(1543)年にポルトガル商人から種子島へ火縄銃がもたらされて以降(年代は諸説あり)、日本はポルトガルやスペインとの貿易を行った。

ポルトガルから日本へは、火縄銃をはじめ、生糸など多くの物資がもたらされた。逆に、日本からは、銀を中心に輸出を行った。こうして日本は、キリスト教や貿易を通して海外の物資や文物を知ることになる。

これより以前、ヨーロッパでは奴隷制度が影を潜めていたが、15世紀半ばを境にして、奴隷を海外から調達するようになった。そのきっかけになったのが、1442年にポルトガル人がアフリカの大西洋岸を探検し、ムーア人を捕らえたことであった。

ムーア人とは現在のモロッコモーリタニアに居住するイスラム教徒のことである。キリシタンからすれば、異教徒だった。その後、ムーア人は現地に送還されたが、その際に砂金と黒人奴隷10人を受け取ったという。

このことをきっかけにして、ポルトガルは積極的にアフリカに侵略し、黒人を捕らえて奴隷とした。同時に砂金をも略奪した。これまで法律上などから鳴りを潜めていた奴隷制度であったが、海外(主にアフリカ)から奴隷を調達することにより、復活を遂げたのである。では、奴隷制度は宗教的に問題はなかったのだろうか。

1454年、アフリカから奴隷を強制連行していたポルトガルは、ローマ教皇のニコラス五世からこの問題に関する勅書を得た。その内容は、次の通りである(牧英正『日本法史における人身売買の研究』引用史料より)。

神の恩寵により、もしこの状態が続くならば、その国民はカトリックの信仰に入るであろうし、いずれにしても彼らの中の多くの塊はキリストの利益になるであろう。

文中の「その国民」と「彼ら」とは、アフリカから連行された奴隷たちを意味している。奴隷の多くは、イスラム教徒であった。つまり、彼らアフリカ人がポルトガルに連行されたのは「神の寵愛」であるとし、ポルトガルに長くいればキリスト教に改宗するであろうとしている。

そして、彼らの魂はキリストの利益になると強引に解釈し、アフリカ人を連行し奴隷とすることを正当化したのである。キリスト教徒にとって、イスラム教徒などの異教徒を改宗させることは、至上の命題だったのだろう。それゆえに正当化されたのである。

当初、アフリカがヨーロッパに近かったため、かなり遠い日本人は奴隷になるという被害を免れていた。しかし、海外との交易が盛んになり、その魔の手は着々と伸びていたのである。この問題に関しては、岡本良知『十六世紀日欧交通史の研究』(六甲書房)に詳しいので以下、同書を参照して考えてみたい。

日本でイエズス会が布教を始めて以後、すでにポルトガル商人による日本人奴隷の売買が問題となっていた。1570年3月12日、イエズス会の要請を受けたポルトガル国王は、日本人奴隷の取引禁止令を発布した。その骨子は、次の通りである。

ポルトガル人は日本人を捕らえたり、買ったりしてはならない。

②買い取った日本人奴隷を解放すること。

③禁止令に違反した場合は、全財産を没収する。

当時、ポルトガルは、マラッカやインドのゴアなどに多くの植民地を有していた。まさしく大航海時代の賜物であった。彼らが安価な労働力を海外に求めたのは、先にアフリカの例で見た通りである。ところが、この命令はことごとく無視された。その理由は、おおむね二つに集約することができよう。

一つは、日本人奴隷のほとんどが、ポルトガルではなくアジア諸国ポルトガル植民地で使役させられていたという事実である。植民地では手足となる、労働に従事する奴隷が必要であり、それを日本から調達していたのである。理由は、安価だからであった。植民地に住むポルトガルの人々は、人界の法則、正義、神の掟にも違反しないと主張し、王の命令を無視したのである。

もう一つの問題は、イエズス会ポルトガル商人にかかわるものであるが、こちらは後述することにしたい。

では、秀吉は日本人奴隷の問題にどう対処したのだろうか。天正14年から翌年にかけて九州征伐が行われ、秀吉の勝利に終わった。前回触れたが、戦場となった豊後では百姓らが捕らえられ、それぞれの大名の領国へと連れ去られた。

奴隷商人が関与していたのは疑いなく、秀吉によって人身売買は固く禁止された。実は、人身売買に関与していたのは、日本人の奴隷商人だけでなく、ポルトガル商人の姿もあったのである。

そのような事情を受けて、秀吉は強い決意をもって、人身売買の問題に取り組んだ。天正15年4月、島津氏を降伏に追い込んだ秀吉は、意気揚々と博多に凱旋した。そこで、ついに問題が発生する。

天正16年6月、秀吉とイエズス会の日本支部準管区長を務めるガスパール・コエリョは、日本人奴隷の売買をめぐって口論になったのである(『イエズス会日本年報』下)。次に、お互いの主張を挙げておこう。

秀吉「ポルトガル人が多数の日本人を買い、その国(ポルトガル)に連れて行くのは何故であるか」

コエリョポルトガル人が日本人を買うのは、日本人が売るからであって、パードレ(司祭職にある者)たちはこれを大いに悲しみ、防止するためにできるだけ尽力したが、力が及ばなかった。各地の領主その他の異教徒がこれを売るので、殿下(秀吉)が望まれるならば、領主に日本人を売ることを止めるように命じ、これに背く者を重刑に処すならば容易に停止することができるであろう」

秀吉が見たのは、日本人が奴隷としてポルトガル商人に買われ、次々と船に載せられる光景であった。驚いた秀吉は、早速コエリョを詰問したのである。コエリョが実際にどう思ったのかは分からないが、答えは苦し紛れのものであった。

しかも、奴隷売買の原因を異教徒の日本人に求めており、自分たちは悪くないとした上で、あくまで売る者が悪いと主張しているのである。もちろんキリスト教を信仰する日本人は、奴隷売買に関与しなかったということになろう。

日本人が売られる様子を生々しく記しているのが、秀吉の右筆、大村由己の手になる『九州御動座記』の次の記述である。

日本人数百人男女を問わず南蛮船が買い取り、手足に鎖を付けて船底に追い入れた。地獄の呵責よりもひどい。そのうえ牛馬を買い取り、生きながら皮を剥ぎ、坊主も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼前に広がっている。近くの日本人はいずれもその様子を学び、子を売り親を売り妻女を売るとのことを耳にした。キリスト教を許容すれば、たちまち日本が外道の法になってしまうことを心配する。

この前段において、秀吉はキリスト教が広まっていく様子や南蛮貿易の隆盛について感想を述べている。そして、人身売買の様相に危惧しているのである。秀吉は日本人が奴隷としてポルトガル商人により売買され、家畜のように扱われていることに激怒した。奴隷たちは、まったく人間扱いされていなかったのである。

それどころか、近くの日本人はその様子を学んで、子、親、妻女すらも売りに来るありさまである。秀吉は、その大きな要因をキリスト教の布教に求めた。キリスト教自体が悪いというよりも、付随したポルトガル商人や西洋の習慣が問題だったということになろう。イエズス会関係者は、その対応に苦慮したのである。

理由がいかなるところにあれ、秀吉にとって日本人が奴隷として海外に輸出されることは、決して許されることではなかった。また、イエズス会にとっては、片方でキリスト教を布教しながら、一方で奴隷売買を黙認することは、伝道する上で大きな障壁となった。イエズス会は、苦境に立たされたと言えよう。そうした観点から、彼らはポルトガル国王に奴隷売買の禁止を要請していたのである。

しかし、日本に合法的な奴隷が存在すれば、話は別である。率直に言えば、当時の奴隷は家畜のように売買される存在であった。モノを売るのであれば、それはまったく問題ないと解釈することが可能である。

幸か不幸か、少なくとも奴隷売買商人は、日本には法律で認められた奴隷が存在すると考えていた。次の史料は、牧英正『日本法史における人身売買の研究』(有斐閣)に紹介された史料である。

日本には奴隷が存在するか否か、また何ゆえに奴隷となるのか。また子供は、奴隷である父もしくは母の状態を継続するのか否か。彼ら(=奴隷売買商人)が答えて言うには、奴隷は存在する、と。奴隷は戦争中に発生する。また、貧しい親は自分の子供を売って、奴隷とする場合もある。(以下、二つ目の質問に関する回答)子供は次の方法によって、親の状態を受け継ぐ。つまり、父が奴隷で母が自由民の場合は、誕生した男子は奴隷で、女性は自由人である。父が自由人で母が奴隷の場合は、誕生した男子は自由人で、女性は奴隷である。両親とも奴隷の場合は、誕生した男女はともに奴隷である。

この問答の様子は、イエズス会が奴隷売買業者を破門にするか否かの尋問を記録したものである。牧氏が指摘するように、この回答は的を射たものである。たとえば、奴隷が戦争中に発生するというのも、これまで戦場での略奪行為「乱取り」で見てきた通りである。親が子を売る例も、たびたび見られた。

加えて、親の奴隷身分(あるいは自由民の身分)がどのような形で引き継がれるかも、日本の習慣に符合したものであった。当時における日本の情勢と比較して、彼らの言葉に特段の矛盾点は見られないようである。

このような解釈が存在したため、イエズス会では奴隷売買の商人による日本人奴隷の売買を黙認していた節がある。とはいうものの、こうしたデリケートな問題は、徐々にキリスト教の布教をやりにくくしていった。

大きな問題だったのは、一部の宣教師たちが奴隷商人と結託して、日本人奴隷の売買に関与していたということである。そのような状況の中で出されたのが、先述したポルトガル国王の奴隷売買禁止の命令なのである。

「日本人奴隷は神の恩寵」秀吉の逆鱗に触れたイエズス会の解釈

「奴隷を売る日本人が悪い」天正遣欧使節千々石ミゲルのモヤモヤ

日本人のキリシタンは、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買について、どのような感想を持っていたのであろうか。今回は一例として、天正遣欧少年使節の発言を素材にして考えてみよう。

キリスト教の布教と相俟(ま)って、日本からローマ教皇イスパニア国王に使節を派遣することになった。イエズス会巡察使のヴァリニャーニョは、大友宗麟有馬晴信大村純忠キリシタン大名使節の派遣について提案を行った。これが、有名な天正遣欧少年使節である。こうして天正10(1582)年、伊東マンショと千々石(ちぢわ)ミゲルが正使に命じられ、原マルチノ中浦ジュリアンを副使として、同2月に長崎から出航したのである。

少年使節は長崎を出発すると、途中でゴア、リスボンマドリードへと立ち寄った。天正12年11月、少年使節イスパニア国王のフェリペ二世に謁見を果たした。この間、3年近くの時間がかかっている。今では考えられないほど時間を要した。

その翌年の天正13年3月になって、ようやく少年使節は念願であるローマ教皇、グレゴリウス十三世との面会を果たしたのである。ここまでの様子は、天正遣欧少年使節に関する多くの書籍で取り上げられている。

ところで、少年使節たちは旅の途中でさまざまな場所に寄港すると、日本人奴隷と遭遇することが度々あったという。こうした事態に接した彼らの心境は、いささか複雑なものだったようである。

日本人としてのアイデンティティーとキリスト教信仰との間で、随分と少年使節の心が揺れ動いた。その様子を少年使節の会話の中から確認しておこう(エドウアルド・サンデ『日本使節羅馬教皇廷派遣及欧羅巴及前歴程見聞対話録』より)。

まず、問題になったのは、ヨーロッパの国家の間で戦争に至って捕虜になるか、降参した場合、それらの人々はいかなる扱いを受けるのかという疑問である。海外の日本人を思ってのことであろう。以下、少年使節の中での議論である。

少年使節は捕らえられた人が、死刑もしくは苦役に従事させられるのかを問うている。日本では、その扱いはさまざまだった。この疑問に答えたのは千々石ミゲルであり、その答えは次のように要約できる。

①捕虜、降参人とも死刑や苦役に従事させられることはない。

②捕虜は釈放、捕虜同士の交換または金銭の授受によって解放される。

この回答には理由があった。つまり、ヨーロッパでは古い習慣が法律的な効力を持つようになり、キリスト教徒が戦争で捕虜になっても、賤役(奴隷としての仕事)には就かないことになっているとのことであった。

ただし、キリスト教の敵である「野蛮人」の異教徒については別で、彼らは賤役に従わなければならなかった。これが法的な効力を持つようになったのである。この回答に対して、少年使節は改めてキリスト教徒が戦争中(対キリスト教国家)に捕虜になった場合、本当に賤役に従事させられないのか確認した。

これに対するミゲルの回答は、「イエス」である。一同はキリスト教徒が奴隷にならないと聞いて、「ほっ」としたかもしれない。しかし、その回答の後に続けて、ミゲルは日本人奴隷について次のように感想を述べている。

日本人は欲と金銭への執着が甚だしく、互いに身を売って日本の名に汚名を着せている。ポルトガル人やヨーロッパ人は、そのことを不思議に思っている。そのうえ、われわれが旅行先で奴隷に身を落とした日本人を見ると、道義を一切忘れて、血と言語を同じくする日本人を家畜や駄獣のように安い値で手放している。わが民族に激しい怒りを覚えざるを得なかった。

ミゲルにとっては、日本人の「守銭奴」ぶり、そして金のために日本人奴隷を売買する同胞が許せなかった。その強い憤りが伝わってくる。そのミゲルの言葉に同意したのが、伊東マンショである。

マンショはヨーロッパの人々が文明と人道を重んじるが、日本人には人道や高尚な文明について顧みないと指摘している。マンショが言うところの文明と人道とは、あくまでヨーロッパ諸国やキリスト教を基準としたものであろう。

マルチノもミゲルの言葉に同意しつつも、次のような興味深い指摘を行っている。

ただ日本人がポルトガル人に売られるだけではない。それだけならまだしも我慢できる。というのも、ポルトガル人は奴隷に対して慈悲深く親切であり、彼ら(=奴隷となった日本人)にキリスト教の戒律を教え込んでくれるからだ。しかし、日本人奴隷が偽の宗教を信奉する劣等な民族が住む国で、野蛮な色の黒い人間の間で奴隷の務めをするのはもとより、虚偽の迷妄を吹き込まれるのは忍びがたいものがある。

マルチノは、日本人がポルトガルに売られるだけなら我慢できるという。その理由とは、仮に日本人奴隷がポルトガル人のもとにいたならば、キリスト教の崇高な理念を教えてくれるからである。少年使節の考えは、あくまでキリスト教がすべてであった。

そして、現実には東南アジアで多くの日本人が奴隷として使役されており、そこで異教(キリスト教以外の宗教)を吹き込まれることが我慢ならないとする。同じ日本人奴隷であっても、キリスト教さえ信仰してくれたらよいという考えである。

つまり、日本人が奴隷として売られても、キリスト教を信じることになれば、最低限は許せるということになろう。この考え方は、ポルトガル商人がアフリカから奴隷を連行することを正当化する論理と同じである。

子の言葉には、少年使節の賛意が示されている。そして、まだまだ議論は続く。マルチノは、もともと日本では人身売買が不徳とされていたにもかかわらず、その罪をパードレ(司祭職にある者)やポルトガル商人になすりつけ、欲張りなポルトガル商人が日本人奴隷を買い、パードレはこれを止めようともしないと指摘した。

この指摘に反応したのがミゲルである。ミゲルは、次のような見解を示している。

ポルトガル人には、いささかの罪もない。彼は何と言っても商人である。利益を見込んで日本人奴隷を購入し、その後、インドやそのほかの国々で彼ら日本人奴隷を売って金儲けをするからといって、彼らを責めるのは当たらない。とすれば、罪は日本人の方にあるのであって、普通なら大事に育てなければならない子供が、わずかな対価で母の懐からひき離されていくのを、あれほどことなげに見ることができる人々なのだ。

ミゲルの見解は、ポルトガル人が悪いのではなく、売る方の日本人が悪いというものであった。当時の日本人は、ミゲルが指摘するように、わが子を売り飛ばすことにいささかの躊躇(ちゅうちょ)もなかったようである。

要するに、キリスト教国であるヨーロッパ諸国と比較すると、日本は人道的にも倫理的にもはるかに劣っていたということになろう。ミゲルの「奴隷を売る日本人が悪い」という考え方は、ポルトガルの常套句に通じるところがある。ちなみに、彼らは当時、10代半ばの少年であった。

以上の会話のやりとりをまとめれば、次のように要約されよう。

①日本人が奴隷として売られても、ポルトガルキリスト教の正しい教えを受け、導かれるのならばそれでよい。しかし、日本人奴隷が異教徒の国で邪教を吹き込まれることは我慢ならない。

②日本人が奴隷になるのは、人道的、倫理的に劣る日本人が悪い。ポルトガル商人は商売として人身売買に携わっているので、何ら非難されることはない。

天正遣欧少年使節の面々は日本人であったが、むしろ不道徳な日本人の考え方を嫌い、キリスト教の教えに即した、ポルトガル商人やイエズス会寄りの発言をしていることに気付くであろう。

余談ながら、天正遣欧少年使節の面々は、その後どうなったのだろうか。伊東マンショ原マルチノ中浦ジュリアンは、その後もキリスト教の勉強を続け、司祭の地位に就いた。しかし、キリスト教が禁止されると、厳しい立場に追い込まれ、マンショは慶長17(1612)年に逃亡先の長崎で病死した。

マルチノは海外に活路を見いだし、マカオへ向かった。そして、寛永6(1629)年に同地で死去している。ジュリアンは国外に逃亡せず、長崎で潜伏生活を送った。しかし、寛永9年に小倉で捕らえられ、翌年に激しい拷問を受けて亡くなった。ミゲルはただ1人棄教の道を選択し、後に大村藩の藩主に仕えた。

キリシタンである天正遣欧少年使節の面々は、ポルトガル人(あるいはヨーロッパの人々)やキリスト教に理解を示していたが、豊臣秀吉については決してそういう考えではなかったかもしれない。

率直に言えば、秀吉はキリスト教の教義などに関心は持っていなかったが、自らの政治的な野心を満たすために認めていたに過ぎない。天正16年6月に秀吉はパードレたちに使者を送り、次の4カ条について質問を行っている。次に、要約しておこう。

①なぜ日本人にキリスト教を熱心に勧めるのか(あるいは強制するのか)。

②なぜ神仏を破壊したり、僧侶を迫害したりして融和しないのか。

③牛馬は人間に仕える有益な動物なのに、なぜ食べるという道理に背く行為をするのか。

④なぜポルトガル人が日本人を買い、奴隷として連れて行くのか。

キリスト教の伝来とともに、多くの文物が日本へもたらされた。秀吉は九州征伐直後、中国大陸への侵攻を構想していたという(最近は否定的な見解もある)。そのとき頼りになるのが、西欧からもたらされる強力な武器の数々である。

やや極論かもしれないが、西洋の文物や武器が入手できれば、キリスト教などどうでもよかったと考えられる。しかし、それも度が過ぎると、承服できない点があったに違いない。その代表的なものの一つが、人身売買であった。

もっとも、肝心なのは先の4カ条目の質問である。この点については前回も触れた通り、ポルトガル出身のイエズス会宣教師、コエリョは次のように述べている。

ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人が売るからであって、パードレたちはこれを大いに悲しみ、防止するためにできるだけ尽力したが、力が及ばなかった。各地の領主その他の異教徒がこれを売るので、殿下(秀吉)が望まれるならば、領主に日本人を売ることをやめるように命じ、これに背く者を重刑に処すならば容易に停止することができるであろう。

コエリョの回答は天正遣欧少年使節と同じく、「売る方が悪い」という理屈である。このやり取りについては、ポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』にも詳しく記載されている。次に、紹介しておこう。

私(=秀吉)は日本へ貿易のためにやってくるポルトガル人らが日本人を多数購入し、奴隷としてそれぞれの本国に連行すると聞いた。私にとっては、実に忍びがたいことである。そのようなことなので、パードレはこれまでインドそのほかの国々へ売られたすべての日本人を日本に連れ戻すようにせよ。もし遠い国々で距離的に不可能な場合は、少なくても現在ポルトガル人の購入した日本人奴隷を放免せよ。私(=秀吉)は、ポルトガル人が購入に要した費用をすべて負担する。

宣教師たちからすれば、日本人が売ってくるから奴隷として買うのだ、という論理であった。しかし、秀吉にとって同胞の日本人が二束三文で叩き売られることは、実に耐え難いことであった。購入にかかった費用を負担してまで買い戻すというのであるから、凄まじい執念といえよう。これに対する回答は、次の通りである。

この件は、殿下(=秀吉)に厳罰をもって禁止することを乞い、パードレが覚書に示した主要な事項の一つです。日本国内はもちろんのこと、海外諸国へ日本人が売られることは、日本人のように卓越し、自尊心の高い民にとって不名誉であり、価値を引き下げることです。この災難は九州のみで行われ、畿内や関東にまで広がっていません。われらパードレは、人身売買と彼らを奴隷にすることを妨害するため、少なからずつらい思いをしています。いずれにしても、それらを禁止する根本的な手段は、殿下(=秀吉)が外国船が寄港する港の領主に禁止を勧告することになりましょう。

この主張を信じるならば、当時、日本人奴隷の売買はポルトガル商人の寄港地である九州を中心にして行われていたことが分かる。いずれにしても宣教師たちの努力では奴隷売買をやめさせるのは難しいようで、秀吉自らが禁止命令を出すべきであるとする。常々、彼らは奴隷として売る日本人が悪いと言っているのであるから、取り締まるのなら日本の方で責任をもってやって欲しいということになろう。

ところで、先行研究の指摘があるように、イエズス会は陰で日本のキリシタンに寺社の破壊を命じたり、奴隷売買にもかかわっていた(高瀬弘一郎『キリシタンの世紀』)。それを隠蔽し、言い逃れをしていたのである。ところが、こうしたイエズス会の曖昧な態度は、秀吉に強い対応策を取らせることになった。

「奴隷を売る日本人が悪い」天正遣欧使節、千々石ミゲルのモヤモヤ

「日本人奴隷は家畜同然」バテレン追放令に秘めた秀吉の執念

秀吉がポルトガル出身のイエズス会宣教師、コエリョに厳しく問い質した後、天正15(1587)年6月18日に有名な「バテレン追放令」を制定している(神宮文庫蔵『御朱印師職古格』)。本稿では、その中の人身売買禁止の部分に絞って、話を進めることにしたい。バテレン追放令の第10条には、次の通り記されている。

一、大唐・南蛮・高麗(こうらい)へ日本人を売り遣わし候こと、曲事(くせごと)たるべきこと。付けたり、日本において人の売り買い停止のこと。

この部分を現代語に直せば、「大唐・南蛮・高麗へ日本人を売り渡すことは違法行為であること。加えて、日本で人身売買は禁止すること」という意味になろう。実は、この「バテレン追放令」は原本が残っておらず、多くの写しがあるに過ぎない。

写しの間には文言の異同があり、これまでいくつかの解釈がなされてきた。

(中略)

いずれにしても、秀吉はポルトガル商人による日本人奴隷の売買を禁止した。同時に、国内における人身売買も禁止したのである。

秀吉の日本人奴隷売買禁止の執念は、9年後の慶長元(1596)年にようやく結実することになった。同年、イエズス会は奴隷売買をする者に対して、破門することを決議したのである。次に、その概要を示すことにしよう。

セルケイラの前任司教ペドロは、当初こそ長い年月の習慣により、ポルトガル商人が少年少女を購入し日本国外へ輸出する際、労務の契約に署名するなどして認可を与えた。しかし、日本の事情に精通すると、奴隷とその労務年限から生じる弊害を看取し、インドへ出発する前に破門令を定めた。その破門令は、長崎で公表された。当該法令は、その権を司教一人が保留し、その行為自体により受ける破門の罰をもって、およそポルトガル人が日本から少年少女を購入して舶載することを厳禁した。そして、その罰に加えて、買われた者の損害(購入代金は返金されない)以外に、各少年少女一人ごとに十クルザードの罰金を科した。

―岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』引用史料

こう記された後、「いかなる人物であれ、ただの一人でも奴隷購買に許可を与えないという宣告である」と明記されている。まさしく不退転の決意であった。

しかも、破門を命じる権限は、司祭がただ一人有するものである。解放された少年少女には、当座の生活資金として10クルザードが与えられた。

歴史学者の岡本良知氏らが指摘するように、秀吉の九州征伐に至るまで、イエズス会は日本人奴隷の売買や海外への輸出をやむを得ず容認する立場であった。しかし、秀吉からの強い禁止の要望により、これまでの方針を転換せざるを得なくなった。

日本人奴隷の売買禁止は、司祭の交代が良いタイミングになったのであろう。何よりも人身売買を継続することで、キリスト教の布教が困難になることが恐れられた。岡本氏が指摘するところの「自衛手段」である。

ところで、キリスト教における破門というのは、いかなる意味を持っていたのであろうか。なかなかキリシタン以外には分かりにくいかもしれない。

破門を命じることができるのは、教会の聖職者に限定されていた。破門の具体的な内容としては、キリスト教信者が持つ教会内における宗教的な権利を剥奪することである。加えて、破門された者は、キリスト教信者との交流を断たれた。

さらに、破門された者は世俗的な教会からの保護も受けられなくなり、教会の墓地への埋葬も許されなかった。欧州では、キリスト教信者が大半を占めるので、破門宣告は「死の宣告」と同義であったと言えよう。そうなると、宣教師の側も並大抵の覚悟ではなかったといえるかもしれない。

翌年の慶長2年、先の司教らの意向を受けて、インド副王がポルトガル国王の名において、次の通り勅令を発布した。それは、マカオ住民の安寧と同地で行われる紊乱(びんらん)非行を避けるなどの目的があった。

朕(=ポルトガル国王)は本勅令により、本勅令交付以後、いずれの地位にある日本人といえども、それをマカオに居住せしめたり連行されることなく、また他のいずれの国民であっても拘束・不拘束にかかわらず、奴隷として連れて来ることを禁止する。

―岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』引用史料

日本人だけではなく、その他の国の人々も対象となった。この後に続けて、刀を輸入することを禁止し、これを発見した場合には厳しい処罰が科された。

その罰とは、ガレー船に拘禁させられるというものであった。ガレー船とは軍船の一種で、映画『ベン・ハー』で奴隷に落ちぶれた主人公のベン・ハー役を演じた、チャールトン・ヘストンが漕いでいた船のことである。実に厳しい重労働であった。

ここには、特に人身売買に関する処罰が記されていない。しかし、先に見た通り、禁を犯したものは破門されるわけだから、それが最も重い罰といえよう。

ところが、この問題は一向に解決しなかったようである。秀吉が病没した翌年の慶長3年には、奴隷輸出をストップするための努力がさらに求められた。

そこで問題視されたのは、貪欲の虜(とりこ)になったポルトガル商人が日本人や朝鮮人をタダ同然で購入し、毎年のように輸出することが、キリスト教の悪評を高めることになっていたことである。この場合の「朝鮮人」とは、文禄・慶長の役で日本軍が朝鮮半島で拉致した朝鮮被虜人を意味している。

キリスト教からの破門という究極の罰をちらつかせながらも、奴隷の売買や輸出は止むことがなかったようである。

以上のような過程を経て、秀吉は人身売買を禁止した。では、なぜ日本人奴隷たちは、その身を落としたのであろうか。彼らが奴隷になった理由はさまざまであり、年端も行かない少年少女は、半ば騙されるようにしてポルトガル商人に買われたこともあったという。その際、仲介者である日本人には、謝礼が払われていた。

ポルトガル人が考えた、日本人が奴隷となりポルトガル商人に売られた理由は四つに大別されよう。

第一に挙げなくてはならないのは、戦争を要因とするものである。大友氏領国の豊後(大分県)が戦場になった際、多くの百姓などが他の各国に連行された。連行された人々は、農作業などに使役されることもあったが、肥後(熊本県)では飢饉(ききん)という事情もあって、豊後から連れてきた人々を養うことができなかった。

そこで、彼らを連行した人は困り果て、暗躍するポルトガル商人に売ったのである。しかも、値切られたのか不明であるが、最終的には二束三文という値段にまでディスカウントされたという。

第二の理由は、日本の習慣によるものであった。日本人が奴隷に身を落とす例は、次のように分類されている。

①夫が犯罪により死刑になった際、その妻子は強制的に奴隷になる。

②夫と同居することを拒む妻、父を見捨てた子、主人を顧みない下僕らは、領主の家に逃れて奴隷となる。

③債権者が債務者の子を担保として金銭を借り、支払いが滞った場合は、子は質流れとなり奴隷となる。

おおむね理由は、①が「犯罪絡み」、②が「家族関係の破綻」、③が「借金」の三つに分類される。ポルトガル商人は、こうして奴隷に身を落とした人々を仲介者から購入したようである。

第三の理由は、親が経済的に困窮したため、やむなくわが子を売るというものである。当時、貧しい百姓は領主から過大な年貢を要求され、自らの生活が成り立たないほどであったと宣教師は述べている。

貧しき百姓は、1年を通して野性の根葉により、何とか食いつないだ。それすらも困難になると、ポルトガル商人に子を売ることになる。

そしてポルトガル商人は、特段疑うことなく奴隷として購入した。宣教師は、「彼らを救済する方法を調査しているのか」と疑問を投げ掛けるが、ポルトガル商人は考えもしなかったであろう。単に商売を目的として、彼らを買っただけである。

最後の理由は、これまでの貧困とは異なっており、自ら志願して「自分を売る」というスタイルであった。岡本氏が言うところでは、海外に雄飛すべく覇気に満ちた日本人といえよう。

しかし、「自分を売る」人々は、あまり歓迎されなかった。その理由は、おおむね次のようになる。

それらの者(=自分を売った者)の大半は承諾した奴隷の境遇に十分な覚悟を持っておらず、マカオから脱出して中国大陸に逃走し、そこで邪教徒になる意志を持っており、単にお金が目当てで自分を売っているに過ぎない。他の者の中には価格に関係なく、その代価を横領する第三者に威嚇されて売られた者もあった。また、ある者はマカオ渡航しようと欲したが、ポルトガル人の旅客として乗船を許可されないことを懸念し、ポルトガル商人の教唆により「自分を売る」者があった。しかし、実際にポルトガル商人は彼ら(=自分を売った者)の大部分が脱走することを恐れ、「自分を売る」という者には最小の対価しか払わなかった。

―岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』引用史料

意外なことではあるが、戦国時代には名もなき民が海外への雄飛を期して、自ら奴隷となる者がいたのである。それは、シャム(タイ)で活躍した山田長政の先駆け的な存在であった。

しかし、「自分を売る」という手段で奴隷になった者は、最初から奴隷の仕事に従事する気はなく、もらった金を懐にして、たちまち脱走するパターンが多かったようである。したがって、こうした人々は商品にならないので、ポルトガル商人から敬遠されたようである。

ただ、以上の見方は、ポルトガル商人側から見た一つの側面に過ぎない。一貫しているのは、「日本人が奴隷を売ってくるから」ということになろう。彼らは奴隷を売買して、儲けることができればいいのである。

宣教師たちには布教という最大の目的があり、同時に日本と関わりを持ったポルトガル商人たちは「金儲け」という目的があった。それぞれの目的が異なったために利害が対立したのは、これまで述べた通りである。したがって、宣教師の残した記録には、やや弁解じみているように感じてならない。

余談ではあるが、当然ながら日本から連行された奴隷たちは、単なる一商品にしか過ぎなかった。その待遇は劣悪そのものであり、人間性を伴った配慮はなかった。奴隷は家畜と同等と言われているが、まさしくその通りなのである。

日本人奴隷は航海中に死ぬことも珍しくなかった。病気になっても世話をされることもなく、そのまま死に至ったという。船底は太陽の光すら当たらず、仮に伝染病にでもなれば、もはや死を覚悟するほかなかったであろう。

「日本人奴隷は家畜同然」バテレン追放令に秘めた秀吉の執念

イエズス会・ザビエル一派が布教の裏で行った日本人奴隷貿易

15世紀以降の大航海時代になると、黒人を奴隷とする大西洋奴隷貿易が盛んになるが、ポルトガル人のアジアへの進出に伴い、アジア人を奴隷とする奴隷貿易も行われるようになっていた。

そんな中、フランシスコ・ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込むと交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであった。

そして、日本でもポルトガル人が日本人女性を奴隷として買い付け、イエズス会士ルイス・セルケイラ(Luis Cerqueira)が1598年に書いた日記によると、ポルトガル人は多数の日本人少女を買い取り、性的な目的でポルトガルに連れ帰ったばかりか、ポルトガル船で働くヨーロッパ人水夫だけでなく、黒人水夫、さらにはポルトガル人が所有していたマレー人やアフリカ人奴隷の性奴隷にされたという。

また、豊臣秀吉朝鮮出兵時の従軍記者の見聞録によると、『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいばかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫び、わめくさま地獄のごとし』と記されている。

例えば、大友宗麟は、「火薬製造に欠くことのできない硝石を手に入れ、輸入するためであれば、彼にとって豊の国の寺院を破壊したり、若き娘たちを売り払うことは何でもないことであった」と。

また、有馬晴信は、宣教師ジョアン・ロドリーゲスの要求により、南蛮人の蛮行を見るに見かねて、領民から進物即ち少年少女達を徴集し、ゴアに本拠を置くポルトガル領インドの副王に奴隷として送った。このため「近所の日本人が子を売り親を売り妻子を売る」という状況となり、「有馬の地全土が苦悩におおわれ、錯乱した人々は子供たちをつれてしげみに逃れた。」といわれている。

この結果、キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団としてローマ法王のもとに行った際の報告書を見ると、『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の枷をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

このように、ポルトガル人が「神の愛」を説きながらキリスト教の布教をおこなう一方で、南蛮貿易において多数の日本人を安く仕入れ、奴隷として船に連行し、海外に売り飛ばす事実を知った豊臣秀吉は激怒、その言葉を伝える「九州御動座記」によれば、イエズス会宣教師に対して、「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地ゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」と警戒した。

が、事態の改善が見られなかったことから、イエズス会の野望を喝破した豊臣秀吉天正15年(1587年)6月18日、宣教師追放令を発布し、イエズス会の一掃を断行したのである。

イエズス会・ザビエル一派が布教の裏で行った日本人奴隷貿易 - るいネット

ヨーロッパ、中南米・・・・・・こんなところに日本人奴隷

―—日本人奴隷の流通は、どのくらいの規模だったのでしょうか?

岡 イエズス会の宣教師ガスパール・コエーリョの1587年の書簡によると、1隻の船で毎年平均して1000人以上の奴隷がマカオに運ばれていった、との記述があります。ただ、ポルトガル船は年に1隻しか来ていないわけではなく、時代によってはカピタン・モールと呼ばれるポルトガルの役職者(役人)が船長として動かしている大きな船が来ていたり、それ以外にもプライベートトレーダーがジャンク船でやって来たりしています。

「この年に何隻マカオから日本に来た」といった研究は、私貿易船のデータがわからないので限界がありますが、最低1隻の大型船で1000人くらい、つまり10年なら1万人ですから、多くの人が想像しているよりも日本人奴隷はたくさんいたといえるのではないでしょうか。大坂の陣(1614~15年)の後にマニラの日本人人口が2000人以上になっているという記述も史料に見られますが、これは日本人が奴隷や傭兵として海外流出した影響だろうと思われます。

―—日本人奴隷の地理的な広がりについては、本によれば東南アジアはもちろん、そこからさらに南アジア、ヨーロッパ、中南米にまで及んでいたと。

岡 1年に1000人以上という規模で出て行った日本人が、ポルトガルの拠点であったマニラやマカオで終わらず、その先まで行くのは当たり前ですよね。「スペインに滞在した慶長遣欧使節団(1613年)の末裔がいる」と謳っているスペイン・セビリア近郊の通称「ハポン村」(「ハポン」は「日本人」の意で、この村では名字がハポンの人が今も多い)、コリア・デル・リオの話が有名ですが、実際にはそれだけ日本人が海外に出ていたわけですから、誰の子孫でも――奴隷の子孫という可能性も――十分あり得ます。ハポンさんの話だけが日本では知られているけれども、同じような話は世界中にあります。

例えば、ポルトガルの田舎の村に「この人の祖母は日本人」と書かれていいる戸籍があったり。『世界の村で発見!こんなところに日本人』(テレビ朝日系)というテレビ番組がありますが、その現象は16世紀にはすでに起こっていたんです。

ただ、朱印船貿易時代(1604~35年)に日本を出て行った貧しい出自の少年が、ヨーロッパの30年戦争(1618~48年)で傭兵として武勲を立てる『イサック』(原作:真刈信二、漫画:DOUBLE-S)という冒険活劇のマンガがありますが、そういう活躍をしてシャム(現在のタイ)の山田長政みたいに海外で一国の主になれた存在は数万人にひとりです。ほかの圧倒的多数は後の世で名前も知られることなく、奴隷として使役されて死んでいきました。

―—奴隷の用途は傭兵や船員、女性なら妾とさまざまだったそうですが、流通価格はアフリカ系のほうが日本人より高かったと。値段は何で決まっていたんですか?

岡 それは用途によりますね。売春させるなら美しいほうがいいし、傭兵なら武術や体格。すべての品物に高級品から汎用品まであり、それぞれ相応の値段が付いているのと同じで、奴隷もランク付けがされていました。今回の増補新版では長崎でのアフリカ人奴隷取引についても書いていますが、アフリカ系の人の価値が高かった理由としては、例えば戦国時代にポルトガル人がアフリカから日本に連れてきて信長が従えていた弥助の存在がありますよね。信長に関する史料では弥助のビジュアルイメージが「八幡神に近かった」と言われています。あるいは、中国の史料ではアフリカ系の人を「黒鬼」と表記している。ですから、実用的な屈強さを求めただけでなく、そういう人間を自分の近くに置くことで「こんなに強いヤツを従えているんだ」という格付けに役立つと考えた、イメージ戦略の部分もあったと思います。

イエズス会士が奴隷の「洗礼」を授けたワケ

―—日本人奴隷の取引は、いつからいつまで続いていたのでしょうか?

岡 ポルトガル人が1543年に種子島に流れ着いたことで鉄砲が伝来したという説がありますが、鉄砲の話はさておき44年にはポルトガル人とスペイン人の両方が日本に来ていますので、そのときにすでに国外に連れて行かれると思います。種子島限定のご当地の伝承として、鉄砲の製造法を教える代わりに村の娘が売られていったというものがあるんですね。その前から鹿児島のあたりの倭寇が中国人・日本人をさらっていましたけど。

日本で奴隷貿易そのものやイエズス会の介入が完全に絶たれる状況になったのは、1598年にルイス・デ・セルケイラが日本司教として長崎に到着して、奴隷取引に関わる者すべてを教会法で罰すると定めたことによります。それで日本人の奴隷という形の流出は終わって――ただ、奴隷身分ではない傭兵などとして海外に行く人は変わらずいました――、奴隷の供給源は秀吉の朝鮮出兵(1592~98年)でさらってきた朝鮮人に変わります。

―—ということは50年以上、取引されていたと。実際には守られなかったそうですが、1570年にポルトガル国王が日本人奴隷取引を禁じたり、1603年にスペイン国王がインド・ゴアでの日本人奴隷禁止を定めたセバスティアン法を再び広布したりと、取引に制限をかけようとしていますよね。そもそも、なぜポルトガルやスペイン国王は日本人は奴隷にするべきではないと考えたのでしょうか? おおっぴらに人さらいから買って大量に奴隷として流通させると、日本の権力者の怒りを買って布教に差し障りがあると危惧したから?

岡 それは大きいと思います。加えて、ヨーロッパでは新しく発見する人種をカテゴライズしてランクを付けるんですね。例えば、イエズス会の亜コスタによる『新大陸自然文化史』(1590年)という本には人種の等級分けについて書かれています。ヨーロッパを最上級とすると、インディオは非常に下位の「獣、動物に近い」に入れられる一方、日本と中国は「中の上」くらいの「ほぼ文明化された人々」に位置づけられています。だから、「そういう人を奴隷にするのはいかがなものか」という議論がされていました。

―—イエズス会の人たちが商人から頼まれて奴隷に洗礼を授けていた動機は・・・・・・?

岡 受洗には「文明化する」、つまり「獣から人間にしてあげる」という意味があります。奴隷にはなるものの、キリスト教徒になることによって人間になるのだから良いことだと解釈されていた。もちろん、雇用主によってはまったく人間扱いしないんだけれども、教会側は「キリスト教徒になったのだから人権は守られるべきだ、虐待は犯罪だ」と考えます。だからこそ、例えばアルゼンチンで「私は本来『期限付きの奴隷』のはずなのに、勝手に永久奴隷にされた」と訴訟を起こした、日本から連れてこられたフランシスコ・ハポンの場合は訴えが認められて、奴隷身分から解放されたという裁判資料が残っています。現地の言葉も自由に話せるようになると、ヨーロッパ人が新大陸でしている契約のごまかしや理屈のトリックに気づくんでしょうね。それで裁判所に訴えた事例がたくさんあります。

―—売られた日本人の感覚からすると「年季奉公」のつもりだったけれども、「奉公」はヨーロッパ人の感覚では「奴隷契約」である、という指摘も本の中にありました。

岡 歴史学で「奴隷」をどうとらえるかという研究が進んだのはこの10~20年ですが、人類の歴史上ずっといて、今もいないとはいえない存在です。英語で言うslavery(奴隷)は多様な労働形態を含みます。日本の奉公がslaveryではなかったかというと、欧米の研究者はslaveryだととらえます。ただ、「期限付き」だったし、例えば年に一度は実家に帰れたりといったことはあった。虐待され続けるディスポーザル(使い捨て)な存在かというと違います。でも、歴史的にいうと、おそらくslaveryに入る。「奴隷」と聞いて私たちがしばしばイメージするのは「アフリカ人がアメリカに連れてこられてプランテーションで働かされる」だと思いますが、そのステレオタイプで人身売買をとらえると実態を見誤ってしまう。

例えば、「からゆきさん」(19世紀後半に東アジアや東南アジアなどに渡って娼婦として働いた日本人女性)の契約書を見ると、16世紀の日本人奴隷の契約書とほぼ同じストラクチャーなんですね。書かれている内容が全然変わってない。ということは、からゆきさんも実質的には奴隷ですよね。

秀吉の朝鮮出兵長崎市場が朝鮮人奴隷だらけに

―—「ポルトガル人が日本人を奴隷として海外に売っていた」と聞くと、「なんてヒドい」という気がしますが、そもそも日本人が戦争で人を捕虜にしたり、誘拐したり、カネに困った親から子どもを買ったりして調達して、それをポルトガル人に売っていたわけですよね。そういう人を狩って売る側の日本人は何か罪に問われたのでしょうか?

岡 問われていないと思います。戦国武将が百姓を戦に動員するときには、その日の握り飯くらいしか与えられなかったんですね。だけど、戦争に行く以上は雑兵(ぞうひょう)だって何か得したい。そこで、兵士が戦地で物を略奪したり、人をさらって売ったりしてお小遣いにするのを禁じていたら、大名は戦争に人を動員できなくなる。そういう形で人をさらっても黙認されている状況がある中で、ポルトガル人という買い手が現れたという話なんですね。それ以前にも、日本国内では人はさらわれて売られ、違う地方に移動していました。ですから、秀吉が伴天連追放令(1587年)で日本人の取引を禁じたのも、「日本人の人権を守れ」といった意図からではなくて、天下統一して戦争がなくなった後、国づくりに使える人や物が海外に流出するのはけしからんという気持ちから発したものではないかと思います。

―—朝鮮出兵ではキリシタン大名や武将が前線に立ち、彼らが略奪してきた朝鮮人奴隷で長崎市場がいっぱいになり、色街もできたということが今回の増補新版では書かれています。日本人が売られていたことだけでなく、日本人が朝鮮人をさらってきて外国人に売ったり、国内で奴隷的に使役したりしていたことも合わせて見ないといけないですよね。

岡 当時、イエズス会内部ではキリシタン大名による朝鮮での略奪やその後の奴隷売買をどう正当化するかが議論になっていました。秀吉はキリシタンではないから神学的に正しい「正戦」ではないけれど、キリシタンの大名や武士は略奪してきてしまう。この点について、ヨーロッパの高名な神学者バスケスに対して日本からわざわざ諮問を送っています。回答は「兵士は主人の命令に従っているだけで、戦争が不正かどうかは測りようがない(罪の意識がない)から、違法とされる神学的根拠はない」。まあ、良いことではないけど目をつむってもいい、と。キリシタン史ではこのことに踏み込むのはタブーだったのですが、『大航海時代の日本人奴隷』の旧版で日本人奴隷の存在を知ってくれた人がたくさんいるのに、そこを踏み込んで書かれないのはいけないと思って今回入れました。戦争をやっている大名ですから、キリシタンといっても綺麗事ばかりなわけがないんですよ。ほかにも、例えば大友宗麟が——スペイン人もポルトガル人も関わっていない――カンボジアとの外交におけるプレゼント交換で、日本人の「美女何人か」を送りつけていたりね。

ポルトガル商人に毎年1000人が海外へ売られた!『大航海時代の日本人奴隷』著者が踏み込んだキリシタン史のタブー|日刊サイゾー

イエズス会の布教戦略

イエズス会の日本における布教戦略は日本の文化や伝統を受け入れつつキリスト教を広めるというものであった。この姿勢は「適応主義」と呼ばれる。また、フランシスコ・ザビエルは日本人の優秀さに驚嘆したと伝えられ、そのため日本には戦国当時の一次史料『日本史』の著者として有名なルイス・フロイスやアレッサンドロ・ヴァリニャーノら優秀な宣教師が派遣された。その甲斐あって日本での布教活動は順調に進んだとされる。

しかし、様々な文献にあたると、イエズス会のこのような平和的な活動とは裏腹に不穏な動きが確認できる。高瀬弘一郎氏の『キリシタン時代の研究』によると、イエズス会の内部では武力によって日本や明を征服すべしとの考えを持つ者もいたようである。

ここで、1つの疑問が生ずる。当時の日本は織田軍や雑賀衆が鉄砲を大量に保有していたとは言え、海軍力が非常に弱く、スペイン・ポルトガルが大艦隊で攻めれば簡単に制圧できそうなものである。これらの南欧勢力はなぜそうしなかったのであろうか?

思い当たる点が1つある。それは信長が家臣で水軍大将の九鬼嘉隆に造らせた「鉄甲船」の存在である。鉄甲船はその正式名称を大安宅船といい、複数の一次史料にその記述が見られるため、その存在は確実であるとされている。

例えば、『多聞院日記』には、「鉄の船なり、テツハウ(鉄炮)とをらぬ用意、ことこと敷儀なり」とある。また、九鬼軍は砲撃を得意としていたため、この大安宅船には大砲3門が装備され、6隻の大安宅船が毛利方の村上水軍を散々に打ち負かしたとの記述が『信長公記』に見られる。

宣教師オルガンチノは「王国(ポルトガル)の船にも似ており、このような船が日本で造られていることは驚きだ」と報告している。南欧諸国の軍艦に匹敵するものを短期間で建造させてしまう信長の凄さを「見て」しまった宣教師たちは、「この人を敵に回すと厄介だ」と思ったに違いない。

イエズス会内で日本の侵略をもくろむ一派にとって、信長は目の上のたん瘤だったのかもしれない。

信長とイエズス会

基本的に信長とイエズス会の関係は良好であった。信長はキリスト教の布教を許し、宣教師たちの活動を援助し、安土城下にセミナリヨ(小神学校)が設立することを許可している。しかしながら1580年、肥前キリシタン大名大村純忠が長崎及び茂木の地を教会領として寄進するという事態が起こる。要は長崎の地は植民地も同然となってしまったのである。

羽柴秀吉イエズス会の危険性について信長に上奏していたというから、危機意識はますます高まったに違いない。しかし、火薬の原料となる硝石を手に入れるため、イエズス会と良好な関係を保つ必要があったのか、このことに信長が反応したという記述は見られない。

毛利攻めを控えていた当時、硝石の調達は重要事項だったに違いなく、天下統一を成し遂げるまでは波風を立てないようにしていたのかもしれない。

弥助という人物

この大村純忠長崎寄進事件の前年の1579年に宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日する。このときヴァリニャーノは1人の黒人を従者として随行させていた。

1581年、信長に謁見したヴァリニャーノはその黒人を信長に献上したという。信長はその黒人を気に入り、弥助(やすけ)と名付けて直臣にまで取り立てている。

この弥助は何と、本能寺の変の際も本能寺におり、その変の一部始終を目撃したとされる。しかも信長の後継者信忠を守るべく、二条城で明智軍と戦って捕縛されてさえいる。・・・にもかかわらず、明智光秀は弥助を殺さずに南蛮寺に送っているのはなぜなのだろう。

実は弥助はイエズス会のスパイで、光秀がキリシタン大名経由でイエズス会から信長暗殺を依頼されていたとしたら、この行動もしっくりとくるのではないだろうか。ちなみにその後の弥助の足取りは不明である。

これに関して興味深い話がある。愛知県瀬戸市定光寺町にある西山自然歴史博物館には、織田信長のものと伝わるデスマスクが展示されているというのだ。

信長の子孫を称する館長の西山氏によると、そのデスマスクは弥助が本能寺から持ち出した信長の首から作られたという。信長の首はまず、本能寺近くの南蛮寺に預けられたというから、イエズス会が確実に信長の死を確認する必要があったのかもしれない。

キリシタン大名明智光秀

明智光秀キリスト教にあまり興味を示さず、宣教師に対してもどちらかというと冷ややかであったという記述がルイス・フロイスの『日本史』に見られる。

しかしながら、特に九州地方ではキリシタン大名が多く、織田政権においても、高山右近のようにキリスト教の洗礼を受ける武将がおり、さらに増えることは明らかであったろう。

信長の天下統一が達成されれば、信長はイエズス会に対して規制を断行する可能性は高かったと思う。優秀な光秀のことだから、規制を断行すればキリシタン大名及びイエズス会の反発は必至であると考えただろう。そうなれば、キリシタン大名イエズス会のバックにいる南欧勢力と組んで反乱を起こす可能性も予見していたに違いない。

ひょっとすると、光秀に対して将軍義昭、本願寺、朝廷に加えて、イエズス会からも「信長を何とかしてほしい」というオファーがあったのかもしれない。光秀はそのことを少々忖度しすぎたのかもしれない、と私は思い始めている。

本能寺の変「イエズス会関与説」~ イエズス会が日本制圧のために信長を操っていた!? | 戦国ヒストリー

イエズス会の正体①~日本の占領を企図したイエズス会とそれに対して反撃し江戸に平和を齎してきた徳川家

イエズス会の目的を想起せよ。彼らは極東、とりわけ日本の占領を企図した。まず最初に宣教師が来た。それから外国の軍隊がやってきた。

日本占領の意図をもってフランシスコ・ザビエルが1549年、日本に到着するとイエズス会士たちは“大名”と呼ばれる日本の貴族多数をキリスト教に改宗させた。イエズス会士たちはそれから大名たちを扇動して何百という仏教寺院を破壊せしめ、さらに仏教の僧侶たちを虐殺させた。

しかし、神の子(イエス・キリストのこと)は、ひとりのプロテスタントキリスト教徒の船長を皇帝の将軍の宮廷に送った。ウイリアム・アダムスが、イエズス会士たちによって殺害されようとするその寸前に、将軍アダムスと会談し、アダムスの話を聞いた。そこで家康はイエズス会の歴史が血にまみれていることを知った。西インド諸島原住民皆殺し、そしてスペインにおける異端審問についても。その結果、この英国人は、異例の恩寵を与えられ、武士に取り立てられた。

将軍家康は、そこで、イエズス会および彼らが構築したトレント公会議によって指導されるローマ・カトリック教会首脳部と法王の政治的行動計画に対して反撃することにした。すなわち、

「家康は、その治世の最初から、彼の帝国を組織し、統合するとともに、彼の権力を外国の陰謀家たちに適切に対抗できるように建設した。

1606年、彼はキリスト教布教活動禁止令およびキリスト教徒棄教令を公布した。家康の言うキリスト教徒はこの場合、ヴォルテールの“その土地土着原住民の政府を打倒してそこに宗派的支配権を打ち立てることを合図とするローマの悪名高き陰謀システム”を意味する」

徳川将軍がこの事情を理解したので、家康、秀忠、家光はイエズス会士とその手先たち、スペイン人、ポルトガル人を追放した、プロテスタント派のオランダ人に1854年まで日本との貿易の独占権を与えた。1614年、家康は、彼の嫡子秀忠の名において、“キリスト教”を非合法化し、イエズス会を追放する法律を公布した。1622年、多数のイエズス会士が、国家反逆罪によって死に処せられた。

1624年、スペイン人、ローマ・カトリック教は、家光の命令によって禁止された。それはなぜか。

「切支丹(イエズス会)は、致命的に危険な教義を海外に広め、真実の宗教(仏教)を根絶し、(日本の)政府を打倒し、彼ら自身を全帝国(日本のこと)の主人たらしめるために策動して来た」

そして彼ら(イエズス会)の目標は何か?

イエズス会の目的は、中国の征服以下のものではあり得ない。そしてイエズス会の神父たちは、日本の支配者の車に乗って北京に入場する希望をずっと以前から抱いていた。

イエズス会の正体�@〜日本の占領を企図したイエズス会とそれに対して反撃し江戸に平和を齎してきた徳川家 - るいネット

イエズス会の正体②~徳川家を追放し明治天皇を頂点とする中央集権国家樹立に成功したイエズス会

(徳川将軍の切支丹禁止令の結果として)イエズス会は、日本からその後250年間追放された。そしてその措置が日本民族に対して、技芸と、反映と、平和とをもたらした。

将軍は彼の家紋も、日本の国家民族も、そのことのために手ひどい仕返しをされるであろうとは、ほとんど予知することが出来なかった!

常時謀略が企てられ、永遠に報復が仕掛けられる。1854年イエズス会はペリー准将の率いるアメリカ艦隊を使って日本を開国させた。その古き敵に対して復讐するために、イエズス会は外国勢力を使って、1868年の革命を作り出した。徳川将軍は“権力を不法に簒奪した者”という悪名を付けられ、辞職するように強制され、徳川将軍家は15代で終焉した。

将軍家を追放した後、イエズス会は、天皇崇拝を復活させ、東京に、イエズス会の将棋の駒たる明治天皇を頂点とする中央集権国家を樹立した。

1873年キリスト教禁止令が撤廃されるや、イエズス会は公式に日本への入国を許可された!1874年、イエズス会宿命の敵たる仏教は、正式にその特権を剥奪され、天皇はもはや、長年の国教であった仏教を保護することをやめた。

この新しい絶対権力をもって、1945年までその“教会の日本刀”を行使する。彼らは天皇の軍隊をもって、イエズス会の二つの旧敵、すなわち中国(1895年)、ロシア(1905年)に対する戦争を起こさせた。北京の満州王朝は1700年代にイエズス会を追放し、モスクワのロマノフ王朝の皇帝は1820年に同じことをしたではないか。

1941年、日本人が報復を受けるべき時が来た。ローマのイエズス会は総長の監督下で、東京のロヨラの息子たち(イエズス会の兵士たち)は、米国と日本の間の戦争を作り出す。フリーメーソン、シュライナー位階によるルーズベルト大統領が完全に承知している状況の中で、真珠湾は東条の日本艦隊によって爆撃される。そして、それは全米国民に惨劇の嵐を巻き起こす。(米国)議会は、この謀略にうまうまと嵌められて、対日宣戦布告を議決する。

天皇は、彼の絶対君主制を失った。太古からの文化を保有する日本は破壊され、日本人は国家的敗北の結果、未曾有の屈辱を受けた。そしてそれからイエズス会は、日本をハワイのように彼らのアメリカ帝国に併合し、その保護と繁栄が完璧にワシントンDCに従属する如き、社会主義的商業的植民地を造り出した。

親愛なる真実の探求者の皆さん。これこそまさに1868年から1990年に至る時期に生じたことである。イエズス会は、明治天皇と彼の孫、昭和天皇を通じて日本の軍隊を思いのままに動かし、1911年満州王朝(清帝国)を廃絶せしめ、第二次世界大戦中、1945年まで『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』に述べられている如くに、中国人民を掠奪暴行し、大量に虐殺した。それから1949年には、イエズス会は、彼らの支配する英国、アメリカ、ロシア帝国をして、中国の大異端審問官毛沢東を権力の座に就けた。そして彼はイエズス会の指令にもとづき、“共産主義”の名の下に、彼自身の国の人民を五千万人、虐殺した。冷たい戦争の勝利者となったイエズス会総長は、極東の絶対権力者の地位に就き、厖大な兵力を有する中国軍という強力な、新しい“教会の剣”を彼の手に持って登場した!イエズス会総長の手の中に在るこの軍隊(中国軍)は、いずれの日か、(ローマ)法王の所有するアメリカ帝国によって先進技術を供与され、十二分な食糧支援を与えられて、日本、韓国(および北朝鮮)、台湾、マレーシア、武装解除されたオーストラリアを併合するであろう。

イエズス会の正体�A〜徳川家を追放し明治天皇を頂点とする中央集権国家樹立に成功したイエズス会 - るいネット

 

スファラディ系ユダヤ

 

この「スファラディム」とは、ヘブライ語で「スペイン」の意味。本来はイベリア半島ユダヤ人共同体のことを指し、アジア・アフリカ系は東洋系(オリエンタル)という。

しかし、現在ではアジア・アフリカ系すべてを、欧米系のアシュケナジームに対比させてスファラディムと総称することが多い。その出身国は、北西アフリカ、モロッコアルジェリアチュニジアリビアイラク、イラン、イエメン、シリア、インドなど広範囲にまたがっており、決して一つの共同体というわけではない。

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

欧州からやってきたアシュケナジーユダヤ人は「エレツ・イスラエルイスラエルの土地)にユダヤ人国家を復興させる」という高い理念に燃えていた。キブツ社会主義ユダヤ人共同体)運動の実践もこの人達である。

しかし、スファラディユダヤ人はこの種のイデオロギーにはあまり共鳴せず、すでに築かれたイスラエルの都市周辺部に吹きだまりのように引き寄せられていった。彼らは、戦争の際には最前線に送られ、戦時ではなく平時には、国境近く、あるいはまた占領地などを開拓するために、イスラエルに集められたのであった。

現在もイスラエル政府の要職についている人間は、ほとんどがアシュケナジーユダヤ人であり、イスラエル国内は支配する立場のアシュケナジー系、支配される側のスファラディ系という二重構造になっている。政治家や学者、医者などにはアシュケナジー系が多い。その反面、肉体労働者にはスファラディ系が多く、彼らのほとんどは経済的に貧しく、下積み状態(二級市民扱い)に置かれている。

ちなみに、ユダヤ教自体もアシュケナジー系とスファラディ系とに区別されており、同じ町に住んでいても異なったシナゴーグユダヤ教会堂)へ足を向けることになっている。

イスラエルに移民したユダヤ人たち(出身地別統計)

上の表はイスラエルに移民してきたユダヤ人たちの出身地別統計である。これを見れば一目瞭然。イスラエル建国とともに、どっとイスラエルに流れ込んできた人たちは、ヨーロッパ出身の「アシュケナジーユダヤ人」である。

しかし、1951年から形勢が変わる。1951年から1956年にかけて続々とアジア・アフリカ出身のユダヤ人たち、すなわち「スファラディユダヤ人」たちがイスラエルに入ってきたのである。彼らは1492年すなわちスペインから追放されて以来、北アフリカおよびアラビア半島アラブ諸国で生活してきた人々である。彼らはイスラエル建国のニュースを聞き、あたかも『旧約聖書』の預言の成就であるかのごとくにして、希望を持ってイスラエルに流れ込んできたのであった。

アラブ諸国からのユダヤ難民(1948年5月~1967年12月)

イスラエル国内のユダヤ人口に占めるアシュケナジー系とスファラディ系の比率は1972年に逆転し、以後、スファラディ系の占める割合が増加している。

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

東京大学教授の鶴木眞氏は、著書『真実のイスラエル』(同友館)の中で次のように述べている。

「現在、イスラエル社会には、異なる民族的特徴を持つ2つのユダヤ人集団が存在する。

1つはヨーロッパ系ユダヤ人集団であり、もう1つはアジア・アフリカ系ユダヤ人集団である。ふつう前者は『アシュケナジー系』と呼ばれ、後者は『スファラディ系』と呼ばれている。この2つのユダヤ人集団の区別は、ユダヤ人の流浪の歴史と深い関係がある。〈中略〉

ところで、厳密にいえば、アジア・アフリカ系ユダヤ人を一括してスファラディ系と呼ぶのは正しくない。なぜなら、ユダヤ人がパレスチナを離れた歴史は一度だけでなく、大きなものを拾っても、紀元前7世紀のアッシリアによるイスラエル王国の滅亡、紀元前6世紀の新バビロニアによるユダ王国の崩壊などの結果、紀元1世紀のローマ帝国によるパレスチナからのユダヤ人追放の前に、すでにインドを含めた中央アジア、中東、北アフリカ、イエメンには、流浪の民としてのユダヤ人社会が存在していた。

したがって、アジア・アフリカ系ユダヤ人のすべてがイベリア半島系のユダヤ人すなわちスファラディ系とはいえない。しかし、今日一般には、スファラディ系とアジア・アフリカ系とが、同義語として使われている。その理由は、アジア・アフリカ系ユダヤ人の祈祷形態がスペインで発展した教義に強く影響されているため、また現在のイスラエル社会でアシュケナジー系以外のユダヤ人を一括して呼ぶ名称が必要なためである。」

1984年には、83万7000人ほどのスファラディユダヤ人がアラブ諸国に住んでいたと推計されるが、1973年にはわずか5万人以下となっている。アラブ諸国に住んでいたスファラディユダヤ人のうち、80%以上が独立後のイスラエル流入した。このため、パレスチナユダヤ人社会の横顔(プロフィール)は、イスラエル独立の前と後で大きく違った。〈中略〉

都市にしろ、モシャブにしろ、キブツにしろ、スファラディ系の人々がアジア・アフリカの諸国からイスラエルへ移住したとき、立地条件がよく安全度の高い地域は、すでにアシュケナジー系の人々に握られていた。スファラディ系の人々の大部分は、社会的にも地理的にも末梢なところに置かれたのである。」

さらに、鶴木眞氏(東京大学教授)は次のように述べている。

「このように、イスラエルユダヤ人社会は、2つの異なるユダヤ人集団から形成されているといえよう。アシュケナジー系の人が、どんなにスファラディ系のシナゴーグユダヤ教会)の近くに住んでいても、決してそこにお祈りに行くことはないし、またその逆も然りである。聖書の読み方や讃美歌のメロディーなど全くちがう。宗教のことは気にとめないと言っているユダヤ人も、ヨム・キプール(贖罪日)やペサハ(過越の祭)などの重要な祭日には、にわかに宗教的になる者が多い。

私(鶴木)は、ふだんは宗教離れしているアシュケナジー系の夫とスファラディ系の妻の家庭で、ペサハのときにコメを食べてよいかどうかをめぐり、たいへんな論争をしているのを見て驚いた。夫はダメだといい、妻は食べることができると反論し、互いの主張を頑として譲らなかった。

アシュケナジー系とスファラディ系の2つのユダヤ人集団の間には、流浪の歴史を通じて結婚などの人的交流はほとんどなかったのである。」

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

また、イスラエルと聖書の問題に詳しいある研究家も、次のように述べている。

「建国当初、1961年頃のアシュケナジームとスファラディムの結婚率はたったの12%程度で、スファラディムとアシュケナジームが融合することは非常に少なかった。

一般的にスファラディムの夫とアシュケナジームの妻という夫婦がいた場合、もしその娘にボーイフレンドが出来たとすれば、スファラディムの父はそれをふしだらなことだと感じるが、アシュケナジームの母はそれを当然のことのように感じると言われる。

彼らは同じユダヤ人であると言いながら、西と東という全く異なる文化圏で生活した、全く異なる人々なのである」

「アシュケナジームとスファラディムは、社会的な階級という意味でも対照的な存在であると同時に、宗教的にも2つの異なる勢力を形成している。もちろん双方ともユダヤ教に変わりはないが、彼らの通うシナゴーグユダヤ教会堂)も2つに分かれている。チーフ・ラビ(ユダヤ教の教師)たちもまた別々に存在している。

アシュケナジームには、ユダヤ教の戒律などを厳しく守ることを重視しない改革派系のユダヤ教徒が多い。彼らの中にはトーラーと呼ばれるモーセの律法を信じない者さえ多い。一方、スファラディムには、オーソドックス(正統派)と呼ばれる、厳格で律法主義的な習慣の中に生きている人々が多いのである」

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

ところで、イスラエル指導者たちはアラブ世界に激しい偏見を持つのみならず、アラブで染まったスファラディユダヤ人たちを“下等民族”とみなす傾向にある。

例えばイスラエルの初代首相ダヴィド・ベングリオンは以下のような発言をしていた。

「モロッコから来たユダヤ人は何の教育も受けていない。彼らの習慣はアラブ的である。私が好きではないモロッコ文化がここにある。私たちはイスラエル人がアラブ的になって欲しくない。私たちは個人と社会を破壊してしまう『レバント(東地中海沿岸地方)精神』と戦い、ディアスポラ(離散)のなかで作り上げて来た本当のユダヤ的な価値を維持しなければならない」

イスラエル第4代首相ゴルダ・メイアは、スファラディユダヤ人に対して人種差別的な傲慢さを明らかにした。

「私たちはモロッコリビア、エジプトその他のアラブ諸国からのユダヤ移民を抱えている。私たちはこれらのユダヤ移民たちを適切な文化レベルまで引き上げてやらなければならない」

イスラエル外相を務めたアバ・エバンは、スファラディユダヤ人とアラブ世界に対する偏見をはっきりと言い表していた。

「私たちが自分たちの文化的状況を見るにつけ、心痛むことが一つある。それはアラブ諸国からやってきたユダヤ移民たちが、やがて優位に立ってイスラエル政府に圧力をかけることになり、隣国すなわちアラブ諸国の文化レベルにまで落としてしまわないかということである」

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

ところで、PLOの初代議長アフマド・シュケイリは「シオニズムが、アジア・アフリカ諸国にいた、移民する必要のないユダヤ人をイスラエルに移送した」と指摘している。

1963年の「国連総会」での演説で、彼は次のように主張している。

「彼ら(スファラディユダヤ人)は、シオニズムによってムチ打たれ、移住させられた。イラク、シリア、エジプト、チュニジア、モロッコなど、アラブ世界のどのようなところでも、ユダヤ人に対する迫害などなかった。だから、彼らは出国する必要などなかったのである!」

この件に関して、前出の鶴木眞氏(東京大学教授)は次のように述べている。

アラブ諸国パレスチナ解放組織の指導者たちは、スファラディユダヤ人を『ユダヤ教徒のアラブ人』と呼んでいる。アラブ人とユダヤ人は同じセム系の民族であり、アラビア語ヘブライ語も、ともに北西セム語というグループに入れられている。〈中略〉

アラブ側がスファラディ系の人々を『ユダヤ教徒のアラブ人』と呼び、アシュケナジー系の人々を『ユダヤ教徒の非アラブ人』と呼んで区別するのは、ヨーロッパに起源を持つシオニズムがアラブの世界とは歴史的にも地理的にも無縁なことを強調したいためである。

そしてパレスチナシオニストの手から解放され、『キリスト教徒もイスラム教徒もユダヤ教徒も平和のうちに祈り、働き、生活し、平等の権利を享受する進歩的、民主主義的、世俗的パレスチナ』が実現したあかつきには、シオニズムを放棄する用意のあるユダヤ人を『ユダヤ教徒パレスチナ人』として受け入れる意図を再三にわたり表明している。

このアラブ側の主張は、本来シオニズムとは無縁であったスファラディユダヤ人に対する連帯の呼びかけでもあるのだ。」

「このアラブ側からの呼びかけに、シオニストは、スファラディ系の人々を『ユダヤ教徒のアラブ人』ととらえることはできないと強く反論する。つまり、ユダヤ人にとっては宗教と民族は分離できない要素であり、キリスト教徒のアラブ人やイスラム教徒のアラブ人と同列に、『ユダヤ教徒のアラブ人』という人々が存在するとは言えないとしている。」

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

現在、イスラエル社会で“差別されている”と感じているスファラディムであるが、ことアラブ人に関することになると保守強硬派である。

長い間、アラブ・アフリカ世界に身を置き、その影響を強く受けてきただけに、ユダヤ人としての自らの立場を強く守ろうとする傾向はなおさら顕著である。

同時に、スファラディムはアシュケナジー系住民の抑圧を口にしながら、「自分たちこそ聖書の本当の代理人である」という自負心(選民意識)を強めている。

彼らスファラディムは、イスラエル国内では二級市民扱いで、「対アラブの楯」とされてきたため、しょっちゅうパレスチナ・ゲリラの攻撃を受けてきた。彼らは、やられたらやり返せで、自然タカ派的になり、アラブ人に対して対決姿勢を強めてきた。

彼らスファラディムは、昔はアラブ人と共存共栄してきたが、イスラエル建国後、アラブ人との長い闘争を通じて、全パレスチナ領を歴史的イスラエル領だと主張するようになり、イスラエル拡大主義を支持し、白人リクード党との結びつきを強めてきたのである。

イスラエルの二大政党のうち、「労働党」はアシュケナジームを中心とする政党であるが、「リクード党」はスファラディムを支持母体とする「反エリート政党」として存在してきた。

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

中東情勢に詳しいある研究家は、スファラディムと右派政党「リクード党」の関係について次のように述べている。

「アシュケナジームがつくったイスラエルに、スファラディムたちがアラブ諸国から移住してきた。なぜ、彼らはイスラエルに移住してきたのだろうか。アシュケナジームはその後、イスラエルアラブ諸国がなお激しく衝突することを見通して、スファラディムを必要としたのである。

なぜならばアラブ人とスファラディムとは同じ血を分け合っている。いわば兄弟関係なのである。もし、イスラエルの国境地域にスファラディムを配置するならば、アラブ諸国イスラエルへの攻撃に躊躇(ちゅうちょ)を覚えるだろうと考えたのである。そして、アラブ諸国から帰ってきたスファラディムは、国境近くの危険地域に配置されていったのである。

〈中略〉

アシュケナジームはイスラエル建国以来、このような本当のユダヤ人を二級市民に落とし続けてきた。

しかし、そこに異変が起きたのがベギン政権(リクード党)の誕生である。1977年5月のことだった。世界は本当に驚いた。それまでベギンと言えばテロリスト、ヘルートという政党を指導していたタカ派の壮士とされてきた人物である。ベギンは万年野党であり続けるだろうと観測されていたのである。しかし彼はイスラエル首相に当選した。

このベギンという人物が登場していなかったならば、スファラディムは政治的主導権を握ることはあり得なかっただろう。ベギンはアシュケナジームである。しかし、彼はユダヤ教に熱心であり、徹底して強固な信仰心を持っていた。スファラディムはベギンに未来を託して、ベギンを首相に押し上げていた。もちろんリクード党を支持する者の中にはアシュケナジームもいたが、その大多数はスファラディムだったのである」

ところで、1981年の選挙結果を分析したA・アリアン教授は、ほぼ、アシュケナジームが左派支持、スファラディムが右派支持という図式が存在していることを明らかにした。

彼はこう述べている。

スファラディムの約60%がリクード党、30%が社会主義政党労働党マパム連合に投票したのに対し、アシュケナジームの60%が労働党マパム連合、30%がリクード党を支持した。また労働党マパム連合の得票の約70%はアシュケナジームから得られたのに対し、リクード党の総得票の65%はスファラディムであった」

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

1993年9月、ワシントンで「パレスチナ暫定自治協定(オスロ合意)」が調印されるとともに、イスラエルのラビン首相とPLOアラファト議長が握手し、世界中が「歴史的な和解」として歓迎した。

しかし、ユダヤ人側にもパレスチナ人側にもこの和解を歓迎しない勢力がいた。

「妥協はするな! アラブ人に死を! アメリカの援助はいらない! ラビンは裏切り者!」

1993年秋、連日のようにエルサレムで和平反対のデモが起きた。

ほとんどは占領地に住むユダヤ人入植者で、「キパ」と呼ぶ小さな被り物を頭に着け、女性は長いスカートをはいていた。若者が多く、時には銃を持つ大人が参加していた。アラファトと握手したラビンが手を洗っているポスターもあった。アラファトと握手したため、手が血まみれになったというのだ。アラファトはテロリストで、手は血だらけだというのである。トーチをかざし、パレスチナの旗を燃やし、規制する警官には「イスラエル警察国家!」と叫び、国境警備兵が出て、首相官邸のそばで逮捕者も大勢出た。しかし、逮捕者はすぐ釈放された。

それから2年後の1995年11月4日、世界は震撼した。

イスラエルのラビン首相が暗殺されたのである。

この日、ラビン首相はテルアビブで胸部、腹部の脾臓、背中に3発の銃弾を浴び、意識不明の状態で近くの病院に収容されたが、その日のうちに死亡したのであった。

その犯人は、こともあろうにユダヤ青年(27歳の大学生)であった。その名をイガル・アミールといった。彼は逮捕された時、警察官に向かってこう言った。

「私は神の命令によって単独で行動した。後悔はしていない」

犯人のイガル・アミールは、イエメンから移民した父母を持つスファラディムであった。また彼は宗教右派の中でも最も過激なグループの一つ「エヤル」(ユダヤ民族戦闘機関)のメンバーだったのである。

このユダヤ青年からするならば、神が与えてくれた土地をあたかも中東和平の結果、返還していくイスラエル首相ラビンは、「神への裏切り者」と映ったのであろう。

しかしこのユダヤ青年だけが特別にそう感じていたのではない。軍参謀総長として戦争を勝利に導いてきたラビンが、今度は首相としてパレスチナ人との対立終結のため、占領地をパレスチナ自治政府に移管しようとした時、右派のユダヤ人たちはラビンの行為を「ユダヤ人の土地を敵に引き渡す背教的行為」ととらえていたのである。

しかしラビンからすれば、イスラエルという国が、また中東においてユダヤ人が生き残るためには、アラブ諸国そしてパレスチナ人たちとの和平が欠くことのできないものであると考えていたのであった。

ニューズウィーク』誌(1995年11月22日号)は、この事件について、次のごとくレポートした。

「11月4日、イスラエル首相を暗殺したイガル・アミール(25)は、テルアビブ郊外のきちんとした家庭に育ち、ユダヤ教正統派の学校で教育を受けた。ここまでは亡き首相の孫娘と同じだ。ただし、学究肌の若者だったアミールは、宗教的にも政治的にもユダヤ教の戒律を絶対視していた。アミールを含むラビン首相暗殺事件の容疑者たちは、自分たちこそ本物のユダヤ教徒だと信じていた。

彼らの主張はイスラエル内外の正統派ユダヤ教徒を中心に、かなりの支持を得ている。ニューヨークでは先週、アミールの支援者がダビデの星をかたどったボタンを1個5ドルで売り、『真のユダヤの英雄』の弁護費用を集めていた。

イスラエル国内では、様々な形で首相暗殺の責任を問う声が上がった。ハト派タカ派の強硬姿勢を槍玉にあげた。極右勢力は、占領地からの撤退を決め、ユダヤ人入植者を裏切ったラビンの自業自得だと主張した。」

イギリスBBC放送で「ラビン首相暗殺後のイスラエル」が放映された。

その中で、未亡人となったラビン夫人は、暗殺事件の起きる数日前からの出来事を次のように述べている。

「事件の前の最後の金曜日でした。私が家へ帰ると、群衆が笑いながらこう叫んだのです。

『今のうちに笑っていろ。そのうち裏切り者として裁判にかけてやる。ムッソリーニと愛人のように、おまえたち夫婦を処刑してやる』と。次の日の夜、同じ場所で追悼集会が開かれることになりました。

主人は雷に打たれて死んだのではありません。人間に殺されたのです。しかもこの土地で育った人間に殺されたのです。この土地には、来る日も来る日も言葉の毒がまき散らされています。主人のことを裏切り者、殺人者と叫ぶことを繰り返しているうちに、事件の下地ができあがっていました。彼を殺すことが神の命令だと思い込む人間が、出てくるべくして出てきたのでした。」

「許せる?

いいえ、絶対に許せません。許せないという理由は、先ほども言ったとおり、彼らは暴力、敵意、憎悪を助長する空気を作ったのです。それが町の通りから原理主義者の社会にまで広く充満していきました。そしてある日、誰かが火をつけたときに空気が反応して、爆発が起きたのです」

一方、同じテレビ番組のインタビューで、犯人のイガル・アミールの妹は次のように答えていた。

「兄は頭のいい人でした。それは今も変わりません。兄は時間をかけて十分に考えた末にあの事を起こしたのです。カッとなってやってしまったとか・・・・・・そういうことではなく、やらなくてはいけないと確信したからやったのだと思います」

ユダヤ人入植者たちは孤立していて、そこに住み続けることは危険なのです。しかし彼らはその入植地を捨てようとはしません。命をかけて守っているのです。兄のイガルは、彼らの行動に共鳴し、支援しようとする人間がいるということを示したかったのだと思います」

「兄のイガルだけが本当に国を愛するということの意味が分かっていたのだと考えています。祖国のためなら何でもする・・・・・・そういう勇気を持っていたのは、結局イガルだけだったのです。自分が何をしようとしているのか、私の兄は分かっていました」

暗殺事件から1ヶ月後、イスラエル警察は暗殺事件に関係する数人のラビたちを逮捕した。ラビとは、ユダヤ教指導者のことである。1人のラビの下に、数百人ないし数千人の同調者がいると言われる。

このように、イスラエル指導部がパレスチナとの親和路線に変更したくても、極右勢力(宗教右派)を支持するスファラディム勢力が猛烈に抵抗する状態になっているのである。

現在、イスラエルの極右勢力は、宗教国家から“普通の国家”を望む穏健派勢力と衝突を繰り返し、占領地をめぐって、イスラエル国内には亀裂が表面化し、内部分裂状態である。

アシュケナジーユダヤ人の間では、イスラエル社会への幻滅が急速に広がっていると指摘されるのも、イスラエル国内のこの亀裂と無縁ではない。

最近では「イスラエルの土地」に愛想をつかし、欧米に移住していく者が急増している。逆にイスラエルへの移住者は年々減少し、さらにアメリカからの移住ユダヤ人は滞在1年でその4割が再びアメリカに戻るといわれている。

これに対し、スファラディユダヤ人たちは言う、

「帰れる場所と金を持つ者はよい。我々はここでしか生きられない」と。

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

イスラエルはヨーロッパによって創られた国である。

そして、イスラエルが中東に建国されたのは、ユダヤ人のためというより、なにかと問題の種になるユダヤ人を、自国から追い出したいという欧米諸国の思惑と、彼らの中東戦略(利権支配)が一致したのが大きな要因だったといえる。

パレスチナ問題や中東問題について語る上で、アラブ人とユダヤ人は大昔から宿命的な敵対関係にあったと説く人がいるが、それは本当ではない。

アラブとユダヤの関係が悪化したのは、第一次世界大戦後のことに過ぎない。そして対立の原因は人種的、宗教的なものではなく、政治的なものである。第一次世界大戦までパレスチナではアラブとユダヤスファラディム)は平和的に共存し、その間に重大な摩擦は起きなかった(ユダヤ人は少数民族であった)。

第一次世界大戦後、それまでパレスチナを支配していたオスマン・トルコの敗北にともなって、パレスチナ国際連盟委任統治の形式で、イギリスの支配下におかれた。これを機会に、イギリスが戦時中のユダヤ人に対する約束に従って、パレスチナユダヤ人の「民族的ホーム」の建設を許してから、対立が始まったのである。

「外国からのユダヤ人が来るまでは、お互い行ったり来たりしながら仲良く暮らしていたものです」という言葉は、1948年以前にパレスチナに住んでいたアラブ人がよく口にする言葉である。

“外国からのユダヤ人”というのはいうまでもなく、建国後に移住して来た欧米系のユダヤ人を指す。そのような指導者階級のもとで強引に推し進められた「植民(入植)政策」によって、カナンの時代からパレスチナに住んでいたアラブ・セム系先住民の土地が奪われていったのである。

そのためパレスチナ・アラブ人たちの抵抗運動は死にもの狂いの“テロリズム”にならざるを得ない。

もし、パレスチナ地域にヨーロッパ・ユダヤ(アシュケナジーム)が勝手に入り込んで、イスラエルを作らなかったら、土着ユダヤスファラディム)もパレスチナ人も何事もなく平和に暮らしていただろう・・・・・・。

まさに悲劇である。

現在、二級市民扱いのスファラディムは、イスラエル国民の6割を占めている。数の上では多数派である。政治的にまとまれば一大勢力になる。今後のイスラエルの政治状況は、ナショナリズムを強めつつある、このスファラディムの動き次第で決まるといっても過言ではないだろう。

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

ちなみに早稲田大学法学部出身で、現在、「副島国家戦略研究所(SNSI)」を主宰し、アメリカ政治思想・社会時事評論などの分野で活発な活動をしている副島隆彦氏は、著書『悪賢いアメリカ 騙し返せ日本』(講談社)の中で、イスラエルの政治の実態について次のように述べている。

参考までに紹介しておきたい。

「今のアメリカに住むユダヤ人たちのうち、金融財界人や学者、官僚になった人々が、グローバリスト・ユダヤ人である。彼らは、世界を自分たちの能力で管理してゆきたいと考えている。彼らはグローバリスト(地球主義者)であるから、『わが愛する祖国と大地』を持たない。だから愛国主義がない。世界中のすべてが彼らの居住地だからだ。

それに対して、古くから、イスラエルパレスチナ)の地に住んでいたユダヤ人たちがいる。彼らは、スファラディムと呼ばれる。イスラエルの保守党で、スファラディユダヤ人の系統であるリクードは、祖国愛の強いナショナリストである。だから、彼らはアメリカのグローバリスト・ユダヤ人たちの言うことを聞かない。

それに対してリベラル派であるイスラエル労働党の方は『パレスチナ和平』に積極的で、アメリカ・ユダヤ人の言うことをよく聞く。このように、ユダヤ人世界も大きくはグローバリストと反グローバリストに分かれて対立しているのだ。」

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

第1章で紹介した東京大学教授の鶴木眞氏は、著書『真実のイスラエル』(同友館)の中で、「スファラディムの現実」について次のような指摘もしている。

参考までに紹介しておきたい。

パレスチナにやってきたユダヤ難民は大きく2つに分けられる。1つはヨーロッパからのユダヤ難民であり、もう1つはアジア・アフリカからの難民である。

ヨーロッパからのユダヤ難民は、第一次世界大戦後のヨーロッパの経済的混乱から逃れてパレスチナへ移民してきた人々に始まり、第二次世界大戦直後はナチス強制収容所で生き残った人々の移民が主流であった。それ以後も、旧ソ連邦から共産主義体制を嫌って国外に移住したユダヤ人の多くがイスラエルにやってきた。

イスラエル建国を主に推進したのはアシュケナジームであった。彼らはパレスチナへの入植を進める中で、その生活の必要からさまざまな労働者組織を結成していったのだが、特に労働党などの左派政党は、シオン労働者組織や青年労働党1906年結成)などの労働シオニズムの思想にもとづいた入植の初期の段階に成立した組織をその前身としており、現代イスラエル国家の誕生よりも古い歴史を持っていた。それらの政党は政治活動だけでなく、活発な社会的、文化的活動をし、国家と社会をつなぐ存在として機能していた。そのような歴史的な背景を考えれば、アシュケナジームが労働党などの社会主義的勢力を支持する傾向が比較的強いことは当然のことと考えられよう。

だが、労働党の長期低落傾向を考えるとき、国家としてイスラエルが発展していくにつれて、政党それ自身がかつての社会的役割を消失していき、それがアシュケナジームの社会主義シオニズム政党離れを促してきたことが指摘されねばならないだろう。」

スファラディムたちはヨーロッパ的なイデオロギーであるシオニズムに共感してイスラエルに移民してきたのではなく、アラブ諸国における生活に不安を感じて移民してきたのであり、事実、アジア・アフリカ系のユダヤ人でも財力のある者の多くは欧米先進諸国へと移住してしまったのである。

イスラエルに移住したスファラディムたちの生活は国家により保障され、経済的発展にも支えられて著しい改善を見せたが、そのような生活を与えてくれた政党や労働組合(ヒスタドルート)など、社会の中枢にある諸組織の意思決定機関はアシュケナジームが支配していた。スファラディムたちは社会の意思決定に対して十分に働きかけることができないという点についての不満をつのらせたのである。

このような国家、社会の意思決定機関に対してスファラディムが十分に参加できないような状況は、イスラエル国会(クネセト)におけるスファラディム議員の比率をみてみれば理解できる。たとえば、1988年の選挙結果では、スファラディムは120人中39人にすぎなかった。このような状況が、イスラエルを建国以来政治的に指導してきた労働党に対する不満を生み出していったのである。」

スファラディムの持つアシュケナジーム中心社会に対する不満を吸収していったのが右派政党であるリクード党であった。しかも、スファラディムは長きにわたってイスラム教の支配の下での生活を強いられていたため、アラブ社会に対する怒りも強かった。そのような彼らにとって、リクード党のアラブ諸国に対する強硬姿勢には共感を持たせるものがあった。

また同時に、スファラディムがイスラエルにおいて新たな脅威にさらされていたことも確かである。その脅威とは、第三次中東(1967年)戦争後占領地となったヨルダン川西岸、ガザ地区における。パレスチナ人のイスラエル労働市場への参入である。

占領地から大量に流入した労働力は、イスラエルで最下層の労働者層を形成した。人手不足に悩むイスラエルにとって労働者を流入させることは不可避であったにせよ、そのことは下層労働者層に多数を占めるスファラディムにとっては脅威であり、その後のイスラエル国内経済の崩壊とそれにともなう失業率の増大によってその脅威は現実のものとして認識された。このため、リクード党の主張する排外的な民族主義的政策に共感したのであった。」

さらに、鶴木眞氏は次のように述べている。

「1972年から73年にかけて、イスラエルでは『ブラック・パンサー』と自称するスファラディ系の若者たちが暴れまわった。テルアビブやエルサレムのスラムで、彼らはイスラエルの支配層への抗議を大っぴらに行動に表したのであった。

イスラエルの支配者はヨーロッパからきた『白人』で、これに対し自分たちアジア・アフリカ系の被抑圧民は『色つき』だとし、それゆえに自分たちを『ブラック・パンサー』と呼んだのだった。

ニューヨークで、白人ユダヤ人たちの組織のうち最も過激な『JDLユダヤ人防衛組織)』と鋭く対立した黒人過激派がブラック・パンサーであったことも、当然計算に入れられていた。

イスラエルのブラック・パンサーたちは、『アラブや被抑圧者と手を組んでイスラエルの体制に決闘を挑む』と宣言した。彼らのこの主張には、イスラエル社会への次のような基本的認識が底流をなしていた。

『(シオニストたちは我々に)イスラエルこそ君たちの国だ、君たちもイスラエルに来て国家の建設に手を貸してほしいと語りかけた。だから我々はイスラエルに移民し、国家の建設を手伝った。しかし真実は、国家の建設が我々(スファラディ系)のためではなく、他人(アシュケナジー系)のためであったのだ。我々はただイスラエルで、底辺の労働力として働かされてこられたのだ。』(『アラブの解放』)

ブラック・パンサーの主張は、イスラエルにとってきわめて過激なものであったにもかかわらず、貧困層スファラディ系の人々の間に多くの共感者を得たのであった。ブラック・パンサーの活動は、体制側からの封じ込めと、内部の主導権争いによって初期のエネルギーは失われてしまった。しかし1977年の国会議員選挙では、イスラエルで唯一の非シオニスト政党である共産党(ラカハ)と協力して『平和と平等のための民主的変革運動』の名の下に代表を国会へ送ることに成功したのであった。〈中略〉」

「・・・・・・今日、イスラエル社会の中で、アラブ問題で最も強硬な意見を持ち、右翼政党の支持基盤となっているのは、スファラディユダヤ人なのである。イスラエルに移住してマジョリティの一員となったとはいえ、生活習慣や外見がアラブ人と大差のない彼らは、ユダヤ人であることをアシュケナジー系の人々に示す必要からも、ことさら自らのユダヤ性を強調する傾向がある。このユダヤ性の強調を最も単純明解に示すのが、アラブに対する強硬姿勢なのである。ブラック・パンサーなどの例外を除いて、スファラディユダヤ人がアラブ側からの連帯の呼びかけに耳を貸す様子は、今のところ全くない。」

スファラディ系ユダヤ人とアシュケナジー系ユダヤ人 ~複雑なイスラエル国内の現実~

デイヴィッド・サスーン

デイヴィッド・サスーンは、インドを拠点に活動したユダヤ人の商人。バグダード出身。

スペインに起源を持つセファルディムの出身で、父サレハはバグダードと現在のイラク南部を支配したパシャの主任会計を勤め、同市のユダヤ人コミュニティーを率いる資産家だった。その後ダウード・パシャによるユダヤ人迫害を逃れてペルシャを経て一家でボンベイに移住し、1832年にサスーン商会を設立、イギリスの東洋貿易に多大な貢献をした。特に阿片戦争のきっかけとなった当時のアヘン貿易において重要な位置を占めていた。その後は香港、上海にも営業所を構える。さらに、南北戦争によりアメリカ産綿花の輸出が途絶えたのを機にインド産綿花の輸出も成功させた。これらの功績が認められて1853年にイギリス国籍を取得。

また、デイヴィッドはボンベイユダヤ人コミュニティーを率いると共に、同地やプーナ、故郷のバグダッドなどに病院やシナゴーグ、学校を建設するなど慈善活動も行った。ボンベイでは英語での教育を施すEEE高等学校やサスーン病院を設置した。デイヴィッド自身は生涯英語を話せず、バグダード時代からのアラブ風の生活様式で生涯を過ごしたが、息子のアブドゥッラーにはイギリス人としての教育を施した。1864年にプーナにて死去した際はその社会貢献からイスラム教徒、キリスト教徒、パルシー(ゾロアスター教徒)、ヒンズー教徒も哀悼を捧げた。

息子のアブドゥッラーは後にアルバートと改名し、イギリスに渡って準男爵となった。18世紀、サスーン家は世界で最も裕福だった一族の1つだった。

ムンバイ(旧ボンベイ)のデイヴィッド・サスーン図書館、サスーン・ドックは彼の名にちなむ。

デイヴィッド・サスーン - Wikipedia

ピーター・ドラッカー

ピーター・ファーディナンドドラッカーは、オーストリア・ウィーン生まれのユダヤオーストリア経営学者。「現代経営学」あるいは「マネジメント」(management)の発明者。

他人からは未来学者(フューチャリスト)と呼ばれたこともあったが、自分では「社会生態学者」を名乗った。父・アドルフ・ドルッカー(ウィーン大学教授)と母・ボンディの間の子で、義理の叔父に公法学者・国際法学者のハンス・ケルゼン(母方の叔母であるマルガレーテ・ボンディの夫)がいる。ドラッカーの自著によれば、父親はフリーメイソンのグランド・マスターだった。

ピーター・ドラッカー - Wikipedia

フランクリン・ルーズベルト

フランクリン・デラノ・ルーズベルトは、アメリカ合衆国の政治家。姓はローズベルト、ローズヴェルトとも表記。

民主党出身の第32代アメリカ合衆国大統領(1933年 - 1945年)。

FDRという略称でよく知られている。

概説より

最高裁判事の人事への介入による三権分立の民主主義原則への抵触や、大戦中に日系アメリカ移民に強制収容を行った事や、政権期間を通じて行われたアフリカ系アメリカ人公民権運動に対する事実上の妨害という人種差別的観点から行われた政策は、その立場を問わず各方面からの大きな批判をまねいただけでなく、アメリカにおける人種差別の解消を遅らせる要因の1つとなった。

民主党政権としての「貧困層」と「人種マイノリティ」という別々の背景を持ったアメリカ社会における弱者に対する矛盾した態度の解決は、1960年代のジョン・F・ケネディとリンドン・B・ジョンソンの政権まで持ち越された。

フランクリン・ルーズベルト - Wikipedia

ローザ・ルクセンブルク

ポーランドに生まれドイツで活動したマルクス主義の政治理論家、哲学者、革命家。

彼女はポーランド王国社会民主党およびポーランド王国リトアニア社会民主党の理論家であり、のちにドイツ社会民主党、ドイツ独立社会民主党ドイツ社会民主党左派)に関わるようになった。機関紙『Die Rote Fahne(赤旗)』を発刊し、革命組織スパルタクス団を母体としてドイツ共産党を創設、1919年1月にはベルリンでドイツ革命に続いて1月蜂起を指導するが、国防軍の残党やフライコール(義勇軍、Freicorps)との衝突の中で数百人の仲間とともに逮捕、虐殺される。死後、多くのマルクス主義者や社会主義者のあいだでは、同じく虐殺された盟友のカール・リープクネヒトとともに、革命の象徴的存在とされている。

ローザ・ルクセンブルク - Wikipedia

デヴィッド・リカード

自由貿易を擁護する理論を唱えたイギリスの経済学者。各国が比較優位に立つ産品を重点的に輸出することで経済厚生は高まる、とする「比較生産費説」を主張した。スミス、マルクスケインズと並ぶ経済学の黎明期の重要人物とされるが、その中でもリカードは特に「近代経済学創始者」として評価されている。

デヴィッド・リカード - Wikipedia

イツハク・ナヴォン

イスラエルの政治家、外交官、劇作家。イスラエルの五代目大統領を務めた。

母方は著名なカバラ主義者のハイム・ベン=アッタールの子孫である。

イツハク・ナヴォン - Wikipedia

シャウル・モファズ

イスラエルの政治家、軍人。カディーマ党党首。副首相、交通相、国防相参謀総長を歴任した。

シャウル・モファズ - Wikipedia

フランコモディリアーニ

ローマで生まれ、アメリカに帰化したアメリカの経済学者。1985年にノーベル経済学賞を受けた。

フランコ・モディリアーニ - Wikipedia

エドワード・バーネイズ

第一次世界大戦中にトーマス・ウィルソン大統領が設立した大衆情報委員会に所属し、アメリカの大戦への貢献が「全ヨーロッパに民主主義をもたらす」ことを目的としている事を喧伝する活動を展開し、功績を認められたバーネイズは、ウィルソンによって1919年に開かれたパリ講和会議に招聘されている。

第一次世界大戦中にドイツ軍が利用したことでネガティブなイメージが付きまとった「プロパガンダ」という単語にかえて、彼は「広報(PR: Public Relations)」という単語を使用するようになった。

バーネイズの娘アンに対するBBCのインタビューによれば、バーネイズは、国民の民主的な判断は、「信頼に足るものでも」恐れるべきものでもなく、アメリカの大衆はいとも簡単に間違った政治家に投票し、また間違った選択をしようとし、またそれらによって導かれなければならなくなっているとバーネイズは感じ取っていた。大衆を導く物として、バーネイズはある種一貫した「賢明な専制」的思想が必要だと考えていたようである。

こうした彼の考えには当時最も著名なアメリカの政治コラムニストであったウォルター・リップマンの影響がかなりあった。バーネイズとリップマンは合衆国公共情報委員会で共に活動しており、彼の代表作「プロパガンダ」でもリップマンを多く引用している。

集団心理の動きとメカニズムを理解できれば、企画者の意のままに、感づかれることなく大衆を操作し、組織化することは可能であり、近年のプロパガンダは、少なくともある焦点、ある限度以内において、これが可能なことを証明している。

バーネイズは、この世論形成の科学的技法を「合意工作(engineering of consen)」と名付けている。

バーネイズ自身その業績は多いが、一方で著名なクライアントが多くいた事でも知られている。一例として、カルビン・クーリッジ合衆国大統領、プロクター・アンド・ギャンブル、CBS、ユナイテッドフルーツ社、アメリカン・タバコ社、ゼネラル・エレクトリック、ダッジ・モーターズなどに加え、公衆衛生サービス公共のフッ素添加推進者の多くはバーネイズのクライアントであった。

著名で有力なクライアントの事業に貢献しながら、バーネイズは古典的出版業界と心理学・社会学の技法を結合し、「宣伝の科学」と呼ばれる広告革命を実現していった。

エドワード・バーネイズ - Wikipedia